筑紫広門
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筑紫 広門(ちくし ひろかど)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。筑後国上妻郡の国人領主で、肥前国の勝尾城主。なお、妻は高橋紹運の妻と姉妹関係にある。
生涯
父の筑紫惟門が大友氏に降伏し、まもなく没したため(自害説もある)家督を継ぐ。耳川の戦いの後に反旗を翻すなど大友氏に反抗的であったが、1586年には高橋紹運の次男・高橋統増(立花直次)に娘を嫁がせて縁戚となり、再び大友氏の傘下となった。そのため、同年に起こった岩屋城の戦いの際には大友氏に味方し、島津氏に攻められて領地を奪われた。この際、弟の晴門は島津方の川上忠堅と壮絶な一騎討ちを演じて相討ちとなり、自身も島津軍の捕虜となって幽閉されてしまうが、翌年に豊臣秀吉の九州征伐がはじまり、島津軍が撤退すると幽閉先から脱出し、家臣を集めて旧領を奪回。その功を賞されて、筑後国上妻郡に18,000石の所領を与えられた。
1592年から始まる文禄・慶長の役にも参陣し、小早川隆景の配下の部隊として奮戦する。1600年、関ヶ原の戦いで西軍に属して京極高次が守る大津城を攻めた。主力が関ヶ原で敗戦した後、徳川家康によって筑紫氏は改易された。その後は剃髪して夢庵と号し加藤清正を頼り、加藤家改易後は細川氏を頼った。死後、息子の筑紫主水正広門は、大坂の役の戦功で寛永4年(1627年)に3,000石の所領を与えられ、子孫は3,000石の旗本として存続した。
逸話
島津軍に敗れ、幽閉の身となっていた際に、「忍ぶれば いつか世に出ん折やある 奥まで照らせ 山のはの月」という和歌を詠んだというが、これを聞いた人達は、「昔は広門、今は狭門」と嘲笑したとされる(しかし、和歌の内容と同じように旧領は取り戻している)。