玉砕

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玉砕(ぎょくさい)は、「玉と砕ける」(玉のように砕ける)こと。太平洋戦争における日本軍部隊の全滅を表現する言葉として大本営発表などで用いられた。対義語は瓦全(がぜん)[1]

由来

「玉砕」という言葉は代の史書である『北斉書』の列伝第三十三(元景安)にみられる。 テンプレート:Quotation

西郷隆盛はこれを引用して次の詩を書いた。 テンプレート:Quotation

また1886年明治19年)発表の軍歌敵は幾萬」(山田美妙斎作詞・小山作之助作曲)には以下の歌詞がある。 テンプレート:Quotation

太平洋戦争

「玉砕」の始まり

テンプレート:出典の明記 太平洋戦争当時の日本で「玉砕」の表現が初めて公式発表で使われたのは1943年アッツ島玉砕であるが、軍隊内での文章などではそれ以前より使用例が見られる。

例えば、1942年昭和17年)2月第一次バターン半島の戦いでは、木村部隊から師団司令部へ「第一大隊ハ玉砕セントス」との電文が送られている[2]。また、公刊戦史上は、1942年昭和17年)12月8日ニューギニア戦線ゴナにおけるバサブア守備隊の玉砕を記録、続く連合軍攻勢により、1943年昭和18年)1月2日には同じニューギニア戦線でブナの陸海軍守備隊が玉砕したが、これらが国民に知らされたのは1944年(昭和19年)2月以降であった。

1943年(昭和18年)5月29日アッツ島の日本軍守備隊が全滅した際、大本営発表として初めて「玉砕」の表現を使用した。これは「全滅」という言葉が国民に与える動揺を少しでも軽くして「玉の如くに清く砕け散った」と印象付けようと意図したものであった。また補給路を絶たれて守備隊への効果的な援軍や補給ができないまま、結果的に「見殺し」にしてしまった軍上層部への責任論を回避させるものであった。

「アッツ島玉砕」では守備隊2,650名のうち、29名が捕虜になった。 テンプレート:Quotation

玉砕と発表された戦い

総員壮烈なる戦死と発表された戦い

本土決戦と一億玉砕

戦局が絶望的となると、軍部は「本土決戦」を主張し、「一億玉砕」や「一億(総)特攻」、「神州不滅」などをスローガンとした[3]。なお既に1941年(昭和16年)から「進め一億火の玉だ」とのスローガンが使用されていた[4]が、これらの「一億」とは、当時日本の勢力下にあった満洲朝鮮半島台湾・内南洋などの日本本土以外の地域居住者(その大半が朝鮮人台湾人)を含む数字であり、日本本土の人口は7000万人程であった。

1944年(昭和19年)6月24日、大本営は戦争指導日誌に以下の記載をした。 テンプレート:Quotation

1944年(昭和19年)9月、岡田啓介は「一億玉砕して国体を護る決心と覚悟で国民の士気を高揚し、其の結束を固くする以外方法がない」と主張した[5]。1945年(昭和20年)4月、戦艦大和沖縄出撃は、軍内の最後通告に「一億玉砕ニサキガケテ立派ニ死ンデモライタシ」(一億玉砕に先駆けて立派に死んでもらいたい)との表現が使用され[6]、「海上特攻」または「水上特攻」とも呼ばれた。

玉砕に類似する事例

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 瓦全 - 大辞林
  • 陸戦史研究普及会(編) 『ルソン島進攻作戦―第二次世界大戦史』 原書房〈陸戦史集〉、1969年昭和44年)、101頁
  • 「47都道府県「日本陸海軍」人物ファイル」(太平洋戦争研究会、2009年、PHP研究所)p290
  • 「図解日本史」(西東社編集部、2009年)p267
  • 「「聖断」虚構と昭和天皇」(纐纈厚、2006年、新日本出版社)p82
  • 一冊の本」(扇谷正造、1976年、PHP出版)「戦艦大和の最後」の章