テルモピュライの戦い
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | テルモピュライの戦い | |
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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | ペルシア戦争中 | |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | テルモピュライの戦いでのレオニダス, ジャック・ルイ・ダビデ作 (1814) ジャック=ルイ・ダヴィッド『テルモピュライのレオニダス』 | |
戦争:ペルシア戦争 | |
年月日:紀元前480年8月 | |
場所:ギリシアのテルモピュライ | |
結果:ギリシア軍の敗退 | |
交戦勢力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | ギリシア連合軍 | アケメネス朝ペルシア |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | レオニダス1世 | クセルクセス1世 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 7,000 | 60,000 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 1,000以上 | 20,000以上 |
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テルモピュライの戦い(テルモピュライたたかい、テンプレート:Lang-grc-short)は、ペルシア戦争における戦いの一つ。紀元前480年、テルモピュライで、スパルタを中心とするギリシア軍とアケメネス朝ペルシアの遠征軍の間で行われた戦闘である。テルモピレーの戦いなどとも呼ばれる。ヘロドトスの『歴史』(第7巻)に記述される。
海戦(アルテミシオンの海戦)ではギリシア艦隊がペルシア遠征軍に善戦したが、テルモピュライではペルシアの圧倒的な戦力の前にギリシア軍が敗退した。しかし、スパルタ軍とテスピアイ軍は全滅するまで戦い、ペルシア軍を3日間に渡って食い止め、クセルクセスの兄弟を二人戦死させた。これは、スパルタ軍の勇猛さと地形をうまく利用したためと言われている。
背景
ペルシアの侵略に対して対応が混乱していたギリシアの諸都市であったが、ペルシア遠征軍がトラキアへ侵入するに及んで、連合してこれを迎撃することを決した。
先にテンペ峡谷に出兵したギリシア軍は、マケドニア王国のアレクサンドロス1世にペルシア遠征軍の巨大さを説かれてイストモスに撤退していたが、再び会議を開き、ペルシア艦隊をアルテミシオン沖で、クセルクセス本隊をテルモピュライで迎え撃つことを決議した[1]。テルモピュライ・アルテミシオンの防衛線は、アッティカ以北を防衛するための戦略的に極めて重要な意味を持つものだったが、スパルタはテンプレート:仮リンク(テンプレート:Lang-grc)の祭によって全軍を出仕できず、レオニダス王率いる先遣隊300のみを派遣した。他のアルカディアの諸都市もオリンピア祭のために少数の部隊のみを動員し、祭りの終了とともに本隊を派遣することとした[2]。
テルマ(現テッサロニキ)を出立したペルシア本隊は、テルモピュライ近郊のトラキスに陣を張った。その兵力規模のあまりの大きさにギリシア軍は恐慌に陥り、スパルタを除くペロポネソスの兵は、イストモスを防衛すべきとして撤退を主張したが、これにポキスとロクリスが強硬に反対した[3]。このためレオニダスはテルモピュライでの決戦を決意し、ギリシア諸都市に使者を送って支援を要請した。
クセルクセスはギリシアの動きを察知していたが、兵力の差からギリシア部隊がまともに戦闘をおこなうとは信じられず、ギリシア部隊が撤退するのを4日間待った。しかし、5日目になってもギリシア軍が撤退する気配を見せなかったため、クセルクセスはメディア軍に攻撃を命じた[4]。
両軍の戦力
ギリシア陸戦部隊
史料によって人数が異なるが、ここにはヘロドトスとシケリアのディオドロスの述べる数字をまとめる。
内訳 | ヘロドトス | ディオドロス |
---|---|---|
スパルタ重装歩兵 | 300 | 300 |
スパルタ装甲歩兵 | ––– | 1,000 |
テゲア兵 | 500 | 3,000
(王指揮下のギリシア兵) |
マンティネイア兵 | 500 | |
オルコメノス兵 | 120 | |
アルカディア各都市の兵 | 1,000 | |
コリントス兵 | 400 | |
プレイウス兵 | 200 | |
ミュケナイ兵 | 80 | |
テスピアイ兵 | 700 | |
テバイ兵 | 400 | 400 |
ロクリス・オプンティア兵 | 不明 (地区の全兵力) | 1,000 |
マリス兵 | ––– | 1,000 |
ポキス兵 | 1,000 | 1,000 |
合計 | 5,200 | 7,700 |
ヘロドトスはスパルタ軍として参戦したのは300人隊のみであるとするのに対し、ディオドロスはスパルタ軍には300人隊に加えて1,000人のスパルタ装甲歩兵が参戦したとしており、ディオドロスが1,000人と伝えているロクリス・オプンティア(テルモピュライの真東)の全兵力を加えたギリシア側の総数は7,000人前後と推定される。ディオドロスのみが記載するマリス(テルモピュライの真西)は直前にペルシア軍本体に占領されており、実際には参戦していないと思われる。またこの戦いの直後にロクリスはペルシア軍に占領され、ポキスはペルシア側の同盟国となった。最後まで戦闘に参加したのは、スパルタ、テスピアイ 、テバイの兵 (合計1,400人~2,400人) のみである(ディオドロスによると、最後まで戦闘に参加したのはスパルタ兵とテスピアイ兵のみとしているが、合計500人と少ない数字を挙げている)。
ペルシア陸戦部隊
歩兵 | 1,700,000 |
騎兵 | 80,000 |
アラビア人の駱駝部隊・リビアの戦車部隊 | 20,000 |
ヨーロッパより参加の歩兵 | 300,000 |
合計 | 2,100,000 |
以上はヘロドトスの述べる数字である。ヘロドトスによるとこのほか水兵が541,610人おり、総兵力は2,641,610人。また非戦闘員が同数帯同したと仮定して遠征部隊の総勢を5,283,220人と見積もっているが、これらは明らかにペルシア遠征軍の実数としては過剰であり、実数とは認められない。ペルシア遠征軍の陸上部隊の実数については多くの学説が提唱されており、15,000から30万まで様々な推定がなされている。古代ペルシア語から古代ギリシア語への翻訳の過程で単位が1桁間違って伝わったという解釈に従うと、ペルシア陸戦部隊の総数は21万人となる。20世紀以降の学者の見解に限ればペルシア陸軍の総数を10万人以下とする推定が大半であり、平均すると6万人前後というのが妥当な数字のようである。
戦いの経過
テルモピュライは、古くからテッサリアから中央ギリシアに抜ける幹線道路で、峻険な山と海に挟まれた街道は最も狭い所で15メートル程度の幅しかなく、ペルシア遠征軍は主戦力である騎馬部隊を展開することが出来なかった。クセルクセスの命によってテルモピュライに突入したメディア・キッシア連合軍は、多数の被害を出しながらも終日に渡って戦ったが、ギリシア部隊を敗走させることができなかった[5]。
スパルタの重装歩兵を先陣とするギリシア軍の強さを目の当たりにしたクセルクセスは、2日目にヒュダルネス率いる不死部隊を投入したが、街道に設けられた城壁を利用して防衛するギリシア軍を突破できなかった。ギリシア軍は、右手にペルシア軍のものを超える長さ5メートル以上の長槍、左手に丸盾を装備し、自分の盾で左側の味方を守り、右側の味方に自分を守ってもらうファランクスを形成してペルシアの大軍と戦った。この時のスパルタの戦術は、敵前で背中を見せて後退し、ペルシア軍が追撃してきたところを見計らって向き直り、正面攻撃を行うというものであった[6]。
翌日もペルシア軍はギリシア軍と激突したが、状況は一向に変わらなかった。クセルクセスは状況を打開できずに苦慮したが、ギリシア人からの情報によって[7]山中を抜けて海岸線を迂回するアノパイア間道の存在を知り、これを利用してギリシア軍の背後に軍を展開することを命じた。ペルシアの不死部隊は土地の住民を買収し、夜間この山道に入った。この道を防衛していたポキスの軍勢1,000は、ペルシア軍に遭遇するとこれに対峙すべく山頂に登って防衛を固めたが、防衛する軍がスパルタ軍ではないことを知ったペルシア軍は、これを無視して間道を駆け降りた[8](一説に拠ると、夜道を登り来る不死部隊を見たポキスの軍勢は自国が襲撃されると思い、守備隊全員が帰国してしまったとも言われる)。夜が明ける頃、見張りの報告によってアノパイア道を突破されたことを知ったレオニダスは作戦会議を開いたが、徹底抗戦か撤退かで意見は割れた。結局、撤退を主張するギリシア軍は各自防衛戦から撤退し、スパルタ重装歩兵の300人とテーバイ400人、テスピアイ兵700人の合計1,400人(またはスパルタの装甲歩兵1,000人を加えて2,400人)は、共にテルモピュライに残った[9]。
朝になると、迂回部隊はギリシア軍の背後にあたるアルペノイに到達した。クセルクセスは、午前10時頃に全軍の進撃を指示。レオニダス率いるギリシア軍もこれに向かって前進を始めた。それまでギリシア軍は、街道の城壁を利用して戦っていたが、この日は道幅の広い場所まで打って出た。[10]。激戦の中、レオニダスが倒れ、ギリシア軍とペルシア軍は彼の死体を巡って激しい戦いを繰り広げた。ギリシア軍は王の遺体を回収し、敵軍を撃退すること4回に及んだが、アルペノイから迂回部隊が進軍してくると、スパルタ、テスピアイ両軍は、ふたたび隘路まで後退し、小丘に陣を敷いた[11]。彼らは四方から攻め寄せるペルシア軍に最後まで抵抗し、槍が折れると剣で、剣が折れると素手や歯で戦った。テーバイ兵を除いて全滅した。ヘロドトスによれば、この戦いによるペルシア軍の戦死者は2万人にのぼったとされる。
この戦いでスパルタ人の中ではアルペオスとマロンの兄弟そしてディエネケスが、テスピアイ人の中ではディテュランボスが特に勇名をはせたという。また、重い眼病によってスパルタ軍のエウリュトスとアリストデモスが一時戦場を去った。エウリュトスは再び戦場に戻って戦って討ち死にしたが、アリストデモスは戦場には戻らず、その時は生きながらえた。翌年のプラタイアの戦いで彼は恥を雪(すす)がんと奮戦し討ち死にした。
戦いの影響
スパルタとともにテルモピュライに残ったテーバイ兵は、彼らが全滅するに及んでペルシア側に投降し、ペルシア遠征軍に組み込まれた。
この戦いでレオニダスとスパルタ兵は英雄として讃えられ、テルモピュライには討ち死したギリシア全軍の碑ほか、スパルタ軍のみに対する碑も置かれた。ヘロドトスによれば、「旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモンの人々に。我等かのことばに従いてここに伏すと」(ラケダイモンはスパルタのこと)と唱われたとされている[12]。この碑文は古来よりシモニデスが草したものとされていたが、ヘロドトスは作者を記しておらず、現在では彼の作ではないとみられている(現在はコロノスにこの言葉を刻んだ石碑が設けられている)。テルモピュライを突破されたギリシア軍はアルテミシオンからの後退も余儀なくされた。
テルモピュライ・アルテミシオン防衛線の崩壊は、イストモス以北のポリスにとっては破滅を意味するものであった。ペルシア遠征軍はテルモピュライを南下し、テッサリア人の手引きでポキス全土を劫略、通過するすべてのポリスを焼き払った。防衛線が突破されたことを受けて、アテナイ、メガラの市民は次々と街を退去し、ペルシア軍は少数の市民が残る街を占拠した。
2度目の戦い
紀元前4世紀から3世紀にかけてバルカン半島を南下し、ギリシアに接近していたガリア人は、紀元前279年にブレンヌスのもとに結集してギリシアを目指した。これに対してギリシアの諸ポリスは再びテルモピュライに集結して防衛線を敷いた。ガリア人の度重なる攻勢に対してギリシア勢はよく守備したが、最終的にはペルシア戦争時と同じく地元住民から間道のことを聞き出したガリア人の部隊がギリシア軍の後方に回りこんだ。しかしこの時は、沖合いに展開して掩護に当たっていたアテネの艦隊に収容されたため、守備隊は全滅という悲劇の再現を免れている。
出典・脚注
参考文献
- Philip de Souza『The Greek and Persian Wars 499-386BC』Osprey Publishing ISBN 9781841763583
- ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(下)』、岩波文庫、ISBN 9784003340523
- 仲手川良雄、『テミストクレス』、中公叢書、ISBN 9784120032110
- 馬場恵二、『ペルシア戦争 自由のための戦い』、教育社
関連項目
- ペルシア戦争
- スパルタ総攻撃(この戦いを描いた映画。1962年制作)
- 300 (この戦いを描いたフランク・ミラー作のコミック。2007年に映画化)
- 300 〈スリーハンドレッド〉 (上記コミックの映画化)
- 炎の門―小説テルモピュライの戦い(この戦いを題材にした小説。スティーヴン プレスフィールド(Steven Pressfield)著)
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テンプレート:Link GA- ↑ ヘロドトス『歴史』巻7,175
- ↑ ヘロドトス『歴史』巻7,206。スパルタなど他のペロポネソス半島の諸都市が本隊を送らなかったのは、最初からイストモスを防衛する意図があったためと推察する向きもある。仲手川良雄『テミストクレス』p120-p122。
- ↑ ヘロドトス『歴史』巻7,207
- ↑ ヘロドトス『歴史』巻7,210
- ↑ ヘロドトス『歴史』巻7,210
- ↑ ヘロドトス『歴史』巻7,211
- ↑ ヘロドトスはこの情報をもたらした人物について、複数の説を挙げている。ヘロドトス『歴史』巻7,213-216
- ↑ ヘロドトス『歴史』巻7,218
- ↑ スパルタとテスピアイの兵は自らの意思で残ったが、テーバイ兵については、レオニダスによって無理矢理留め置かれた。ヘロドトス『歴史』巻7,222
- ↑ ヘロドトス『歴史』巻7,223
- ↑ ヘロドトス『歴史』巻7,224-225
- ↑ ヘロドトス『歴史』巻7,228