板部岡江雪斎

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板部岡 江雪斎(いたべおか こうせつさい 天文6年(1537年) - 慶長14年6月3日1609年7月4日))は、戦国時代の武将。後北条氏豊臣氏徳川氏の家臣。別名、田中融成岡野融成岡野嗣成執権北条氏北条時行)の子孫とされる。子に板部岡房恒(岡野房恒)。姪(姉の娘)に徳川家康側室養珠院がいる。

田中泰行の子であったが、北条氏政の命により板部岡康雄石巻家貞の子)の後を継ぎ、右筆評定衆として活躍した。寺社奉行として寺社の管理にも関わっており、後述する北条氏康の平癒祈祷や、佐竹氏との戦勝祈願などに同じく寺社管理に関わった安藤良整との連署が多く見られる。

元亀2年(1571年)に主君・北条氏康が病に倒れたとき、鶴岡八幡宮にて病平癒の祈願を行なった。天正元年(1573年)、北条氏の盟友・武田信玄が死去したとき、氏政の命で病気見舞いの使者として甲斐国に赴いたが、このとき、武田信玄の弟・信廉が影武者となっていることを見抜けなかったとされる。後に、北条氏が武田氏と同盟決裂すると、勢いに乗る織田信長と北条氏は同盟を結ぶが、この使者として赴いた。天正10年(1582年)の織田信長の死で信濃国をめぐって徳川家康北条氏直が対立したときは、その和睦交渉に奔走し、家康の娘・督姫を氏直の正室に迎えることで和睦を取りまとめた。以後、太田氏房の補佐として岩槻城に拠る。天正17年(1589年)、北条氏と豊臣秀吉との間で対立が深まると、北条氏規とともにその関係修復に尽力した。このとき、秀吉は江雪斎の才能を気に入り、自ら茶を点てて与えたといわれている。

小田原征伐による北条氏の没落後は秀吉の御伽衆となり、姓を岡野と改めた。秀吉の死後は長男房恒が仕えていた徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでも家康に随従し、小早川秀秋の説得にあたったという。慶長14年(1609年)6月3日に伏見で死去。その子孫は旗本として存続した。本家は武蔵国都筑郡長津田村に所領を持った。ほかに分家がある。11代将軍徳川家斉の側近で、のちの老中水野忠成は岡野家よりの養子。

人物

『北条五代記』に「宏才弁舌人に優れ、その上仁義の道ありて、文武に達せし人」と記されている。茶道にも造詣が深く、天正17年(1589年)頃には豊臣秀吉と仲違いし中央を追われ、小田原北条氏に身を寄せていた茶人山上宗二と親交を持ち、後に自著の秘伝『山上宗二記』を贈られている。また愛刀の江雪左文字は、後に国宝になっている。

参考文献

  • 『岡野融成江雪 -秀吉、家康、氏直に愛された天下の名僧- 井上 美保子 (著) 幻冬舎ルネッサンス (2009/6/20)
  • 『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年、ISBN 4490106963

小説

  • 伊東潤 『江雪左文字』(『城を噛ませた男』収録の短編)