神保長住
神保 長住(じんぼう ながずみ、生没年不詳)は戦国時代の武将。越中国人神保長職の嫡子と推定される。弟に神保長城。同族に神保氏張。官位は越中守。
永禄11年(1568年)頃、武田氏や加賀一向一揆との同盟を主張して、親上杉氏の政策を維持しようとした父長職や重臣小島職鎮らと対立し、翌年10月、上杉謙信が介入し、長住ら反上杉派は鎮圧されたとされる。
天正5年(1577年)11月16日、上杉謙信により能登珠洲郡細谷村、神保越中守分89貫457文が飯田与三左衛門に与えられている。このことから、内紛に敗れた後、長住は能登畠山氏に身を寄せ、所領を持っていたことがわかる。しかしその能登も謙信に征服されたため、長住は京都に上って織田信長に仕えたとみられる。
天正6年(1578年)、謙信の急死を契機として信長より佐々長穐らの兵を与えられて織田軍の先鋒として飛騨経由で越中へ侵攻し、国人斎藤信利、小谷六右衛門、二宮長恒などを味方につけ、増山城を攻略し、越中西南部を制圧した。9月には更に斎藤新五郎が濃尾の兵を率いて援軍に加わり、月岡野の戦いで上杉・椎名勢に大勝した。斎藤勢ら援軍は間もなく帰国したが、津毛城に入っていた長住は北進して神保氏ゆかりの富山城を奪還し、更に東進して新庄城、松倉城に攻め入るなど活発な軍事行動を行っていたが、天正9年(1581年)、佐々成政の越中入国後は成政の軍事指揮下に入った。
天正10年(1582年)3月、旧臣の小島職鎮、唐人親広らに富山城を急襲され、捕らえられた。間もなく織田軍の反攻で助けられたが、この事件で長住は失脚し、追放された。その後、かつて長住の傘下にあったと思われる国衆菊池右衛門入道が柴田勝家に長住の身上取り成しを依頼しているが叶わず、翌年に伊勢神宮へ越中還住を祈願している。その後の長住の消息は不明である。