坂田明

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テンプレート:Infobox Musician 坂田 明(さかた あきら、1945年2月21日 - )は、広島県呉市広長浜出身のジャズサックス奏者、タレント俳優ミジンコ研究家としても知られている。

息子もミュージシャンで、元・バンド「Polaris」のドラム担当の坂田学

プロフィール

広島県呉市広長浜生まれ。広島大学水畜産学部水産学科卒業後、1969年に上京し「細胞分裂」を結成。1972年から1979年にかけて山下洋輔トリオに参加し、1979年末まで在籍。激しいサックス演奏で知られるようになる。同トリオを脱退後は、さまざまなグループの結成・解体を繰り返し、2000年から「坂田明mii(みい)」を中心に活動。現在は「坂田明Trio」、「坂田明&chikamorachi」でのレギュラーユニットの活動と同時に、内外のミュージシャンとのフリー・セッションを行なっている。

ジャズ奏者としての坂田明

 ジャズとふれ合うきっかけ 

ジャズとふれ合うきっかけは、中学2年生の時に観た「墓にツバをかけろ」というフランス映画で、そのテーマ「褐色のブルース」初めて聴いて衝撃を受ける、これがモダンジャズとの出会いであった。楽器はまだ何か始めていたわけではなかったが、高校生になったらトランペットをやりたいなあと漠然と思っていた。

 高校時代 

広島県立広高等学校に入学し、ブラスバンド部に入部。自分で楽器を持っていないため、学校の所有する楽器を使うが、いいトランペットがなく、クラリネットを吹くことになった。部員が8、9人ぐらいしかいなく、みんなが勝手なことをやっていて、水原弘の「黒い花びら」を弾いたりしていた、教えてくれる先生はいたが、坂田自身は人の言うことを聞くのが嫌いで、物事を筋道立ててやるより、ぱっと思ったことを、すぐぱっと進めたい性分でありみんなとうまくいかなかった。「それはジャズ・ミュージシャンに共通しています。」という対談での問いかけに対し坂田も「まあ、はいはい聞いているような人はミュージシャンではなくて、ほかの仕事をしたほうがいい。」と語っている。

 大学時代 

広島大学でジャズ研に入り、親戚中から資金を工面してアルトサックスを手に入れ、アルトサックスを始めた。大学時代は、まだプロになろうという思いはなく、大型自動車免許を取得し家業の運送業を手伝っていた。が、父親はちゃんとした会社に就職させたかったのか、「おまえをトラックの運転手にさせるために国立大学に入れたわけではない」といい顔をしなかったので、「やむを得ずサックスを吹いていて、まあしょうがないからジャズ・ミュージシャンになったようなものかな」と対談で述べている。大学卒業時、卒論は書いたけど、教授の推薦する立派な会社に入ったら、辞退するわけにはいかないので、進路は自分で決めますと言って、サックス片手に東京に出てきた。祖父は、「どうも僕に牡蠣の養殖をやらせたかったらしく、お前は演歌師になるんだってなあ」なんて、勘違いしながらがっかりしていた。地元の漁業組合は学士が漁師になってくれると思ったのに、なんだよ」って怒っていたねと答えている。

 上京 

1969年上京して、すぐには音楽で食べていけないので、まず川崎の運送会社に入り、翌1970年に新宿ピットインに出演するようになった。新宿ピットインに出演するきっかけは、渋谷のBYGというライブハウスで、阿部薫(サックス)と吉沢元治(ベース)さんがデュエットでやっていので、そこに飛び入りして吹いたところ、「いいね、ジャズスポットを紹介してあげるよ」と店の人が言ってくれて、新宿ピットインにも顔を出せるようになった。フリージャズをやろう思ったきっかけについての問いかけには、東京に出て、自分より数万倍うまいミュージシャンがたくさんいるのを実感し、「これは同じことをやっているんじゃダメだ、20年経っても追いつかない。ビ・バップはあきらめよう。ただ自分なりに力一杯吹こうと思い、その先にフリージャズがあった」と返答している。ニュー・ジャズ・ホールもしばらくして無くなり、フリーのミュージシャンはサムライというティールームに移って演奏していた。そこで、「ある日、森山威男(ドラム)さんが、俺にも叩かせろって感じで飛び入りしてきた。そこに土岐英史(サックス)が来るわ、渡辺香津美(ギター)が来るわで、みんなでぐちゃぐちゃやってた。」と東京でフリージャズをやる人が集まり、フリーのミュージシャンが共演したり、情報交換したりする場所となった。

 山下洋輔トリオ 

そんなことをやっていたら、1972年、自分と森山さん(ドラム)にフジテレビから藤純子引退記念番組という仕事が入ってきて、30分間、デュオでフリーを演奏つづけ、菅原文太がインタビューを受け、こちらではセーラー服の女子高生が傘をもってぐるぐる回るという、とてもシュールな番組で、山下洋輔さんがそれをテレビで観ていて、一度セッションに遊びにおいでと声をかけてたが、1969年から1972年サックスは中村誠一さんで、トリオにまぜてもらって吹かしてもらったことがたびたびあった。中村誠一さんが辞めるので、坂田明に交代し1972年12月に山下洋輔トリオのメンバーとなり、一流バンドの凄さを思い知らされた。客層が違い、筒井康隆さん、日高敏隆さん、殿山泰司さん、赤塚不二夫さんなど、いっぱい有名人が来ていた。水面から顔をあげたら、いろいろなものが見えたという感じた。また、渡辺貞夫さんがステージを見に来てきて、「いいね」と声をかけてくれたことがあり、音楽の方向性が違うのに、認めてくれた、ということで自信がついた。日野皓正さんや松本英彦さんや宮沢昭さんも、「おまえは徹底していていい」なんて言ってくれたと対談で語っている[1]

ミジンコとの関わり

広島大学水畜産学部水産学科(現・生物生産学部)の卒業生であり、2003年には長年にわたるミジンコの研究・普及活動が認められ、日本プランクトン学会から特別表彰された。2007年には東京薬科大学生命科学部客員教授に就任した。[2]

タレントとしての坂田明

山下洋輔、赤塚不二夫、タモリらのお友達としても活躍[3]ハナモゲラ語の元祖でもある[3]1982年セイコー腕時計「ハイブリッド」のテレビCMのユニークなパフォーマンスで一気に有名になった[3]。商品名をもじった「ハイブリッド人間」は、当時の流行語となり、その代表ともいわれた[3]。CMは1990年代テイジン2005年に、KINCHOのゴキブリ用殺虫剤「コックローチ」で輪島功一と共に学ラン姿で出演している。

ディスコグラフィー

  • Counter Clockwise Trip
  • Peking
  • Tenoch Sakana
  • Pochi
  • 20人格
  • 死ぬときは別
  • 4 O'Clock
  • Live-dub
  • Dance
  • 下駄はいてこなくっちゃ
  • Trauma
  • DA-DA-DA
  • Tacology
  • Akira Sakata vs Spherical Sound
  • MOOKO(蒙古)
  • Silent Plankton
  • Nano Space Odyssey
  • どうでしょう?!(How's That)
  • 海La Mer/Harpacticoida
  • Scenic Zone/ gazelle 
  • Fisherman's.com
  • 108 Desires
  • 坂田さんとTOY-Live at PIT INN-
  • A SAKATA/KAIGARABUSHI DJ KRUSH REMIX
  • 赤とんぼ
  • かなしい EXPLOSION
  • チョット!(I'm here)

著書

  • ジャズ西遊記
  • ハイブリッドだもんネ!
  • 笑うかどで逮捕する!
  • エイズエイジの混同夢狂騒曲
  • ミジンコの都合
  • 瀬戸内の困ったガキ
  • クラゲの正体
  • ミジンコ道楽-その哲学と実践

映画

テレビ

CM

DVD

参考文献

  • 季刊・analog「連載:PIT INN その歴史とミュージシャンたち」、音元出版

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 佐藤良武との季刊・analog「連載:PIT INN その歴史とミュージシャンたち」との対談による。
  • 坂田明氏(ジャズサックス奏者、ミジンコ研究家)が本学部客員教授に 東京薬科大学生命科学部
  • 3.0 3.1 3.2 3.3 週刊サンケイ サンケイ新聞出版局 1982年2月18日号 184頁。