ホテルニュージャパン

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:Hotel ホテルニュージャパン (英称Hotel New Japan) は、かつて東京都千代田区永田町にあったホテルである。1982年昭和57年)の火災事件を機に閉鎖され、廃業した。

歴史

開業まで

ホテルの敷地は二・二六事件の際に部隊が立ち寄った日本料亭「幸楽」の跡地だった。「幸楽」は戦時中、撃墜されたB-29が直撃、大破全焼している。

藤山愛一郎率いる藤山コンツェルンが設立母体となり、当初このホテルは高級アパートメントとして計画されていた。しかしその後突如としてホテルへと計画変更され、1960年に開業する[1]。当時は1964年東京オリンピックの開催を目前とした第一次ホテルブームが巻き起こり始めていた時代でもあり、結果的にこのホテルはその先駆けとなった。

都市型多機能ホテル

当時はリョーテル(料亭とホテルの融合)や東洋一の格式を謳い文句に旅館部とホテル部の設置、日本初のトロピカルレストランやオープンカフェ、ショッピングアーケードを構え、内装飾ともに前衛的、画期的なアイディアが盛り込まれた日本における初の都市型多機能ホテルとして、云わばモデルケース的な存在でもあった。

フジテレビ(当時・新宿区河田町)、日本テレビ(当時・千代田区二番町)からTBSNET(日本教育テレビ)までの中継点に当たり、国会議事堂からも至近という立地柄であることから政財界・芸能界の利用も多く、日本を代表する人気俳優であった市川雷蔵も同ホテルで結婚披露宴を催し、1968年10月にはモンキーズが来日公演で訪れた際に宿泊、1970年春にはイギリスを中心としたヨーロッパ諸国と日本で絶大な人気を博していたシンガーのスコット・ウォーカーが来日公演で訪れた際に宿泊、また政争の報道のたびに同ホテルが舞台になることも多かった。だが、同じく1960年代に開業したホテルニューオータニや東京ヒルトンホテル(後のキャピトル東急ホテル(旧))、ホテルオークラなどと比較すると、経営ノウハウや設備面などで見劣りしたことや、莫大な借入金の負担から、経営面では苦戦を強いられた。

また敷地の地下(ホテル1階とは連絡していないためフロアではない)には高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」があり、こちらも豪勢ではあったものの、1960年代後半から既に流行や時代の波に取り残されていた。その後このナイトクラブでは1963年力道山が暴力団員に刺された事件(後に死去)が発生している。ナイトクラブ自体はホテルニュージャパンとは別営業であり、ホテルが火災に遭い廃業となった後も1989年まで営業を続けていた。

買収と火災

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ファイル:Prudential-Tower-Tokyo-01.jpg
跡地に建設されたプルデンシャルタワー

後に、藤山コンツェルンの衰退により、買収王として知られていた横井英樹がこのホテルを買収した。横井は自ら社長に就任して、華美な面を省くなど徹底した合理化を促し、さらには安全面までをも軽視したホテル経営を行っていたが、1982年ホテルニュージャパン火災の発生後に営業禁止処分を受け廃業した。 この時期に宿泊した経験を持つ二木啓孝が、文化放送のくにまるジャパンで2012年2月8日に語った内容によると、廊下は異様に薄暗かったが、レストランのスパゲッティは1皿2,500円だった とのこと。

火災後

火災後、横井に対して多額の貸付を行っていた千代田生命保険が、貸付金の担保であったこのホテルを競売により売却することで資金の回収を図ろうとした。しかし、火災等の曰く付きの土地を購入しようという投資家は見当たらず、千代田生命が自己落札し自ら敷地を保有することとなった。その間、都心部でも一際恵まれた好立地でありながら廃墟のまま放置され続けていたが、火災から14年後の1996年になってようやく建物は解体された。跡地は千代田生命が再開発事業に着手したものの、千代田生命自体が2000年10月に経営破綻する[2]。その後、プルデンシャル生命がこの土地と建設途中のビルを買収し、森ビルと共同で建設を進め、オフィスと外国人向け高額賃貸住宅から成るプルデンシャルタワーとして2002年12月16日に完成した。

運営会社の株式会社ホテルニユージヤパン(ニュージャパンではない)は現在も存続している。1990年代までは敷地内で月極駐車場を経営していたが、現在の事業内容は不明。

建物

建物は、大隈講堂の設計者(佐藤功一と共同設計)や建築音響学の権威として知られる佐藤武夫が設計した。全体の平面構成は、120度の角度で接続する大きな「Y字型」を中心に、さらにその先端にやはり角度120度で同じ奥行きの「Y字型」の枝が接続するという、いわばフラクタル構造の形をした建築であった。これは全室から景色が見られるよう意図したものであるが、その結果まるで迷路のような内部空間となってしまい、後の火災発生時にも避難を困難にした原因のひとつともなった。これには最初同ホテルが高級アパートメントとして計画された影響も大きかった。急な用途変更により、設計者の佐藤武夫も困惑し納期の関係から急ごしらえを余儀なくされたことが悲劇へとつながった。

内装

内装は日本を代表する工業デザイナー剣持勇が担当した。このホテルのラウンジチェア(実際はロビーラウンジではなくメインバーであったマーメードバーに置かれていた)がMOMA(ニューヨーク近代美術館)の永久収蔵品に選定されるなど、剣持勇の担当した内装は評価が高く、剣持の提唱したジャパニーズモダンの様式を体現したホテルであった。しかし、その後の度重なる内装の小変更によって、次第に剣持オリジナルの意匠が薄れていった。

また前述の強引ともいえる突貫工事の影響により、軽量ブロックなど当時出始めていた新建材を多用せざるを得なかったため、同ホテルはソフト面でのモデルケースとしてだけではなく、後に増大する新建材の実験場ともなっていた。

特に和室は世界的なテキスタイルデザイナーであるエバ=ガデリウスと剣持と共同で壁紙を製作した洋室とは違い、壁等に新建材を多用したためにデザイン面では優れていたものの質感に乏しかったという指摘もある。

脚注

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  1. 藤山愛一郎の政界進出の煽りでコンツェルンが解体へと向かう中、まさに落日の象徴ともいえるホテルでもあった。
  2. 経営破綻後、千代田生命は米国大手金融グループであるAIGに買収、AIGスター生命保険を経て、現在はジブラルタ生命保険に統合されている。