漢方医学
テンプレート:東洋医学 テンプレート:出典の明記 漢方医学(かんぽういがく)または漢方とは、5、6世紀に大陸から伝来した中国医学を基に、日本で発展した伝統医学である。16世紀室町時代以降に独自性を持つようになりテンプレート:Sfn、活発な貿易が行われた安土桃山時代に一般に普及した。(これは、日本では生薬の多くは輸入する必要があり、海上ルートの確立が欠かせなかったためである[1])現在日本の東洋医学業界では、古典医学書に基づく薬物療法を漢方医学、経穴などを鍼や灸で刺激する物理療法を鍼灸医学、両者をまとめて東洋医学と呼んでいる[2]。 漢方医学では、伝統的診断法によって、使用する生薬の選別と調合を行う。このように処方された生薬方を漢方薬と称す。漢方薬の一部は1976年(昭和51年)から保険薬として収載されており、現在では漢方医学に基づいた治療が広く行われている[3]。
漢方医学は中国医学を基に発展し、「気血水」「虚実」などの理論や、「葛根湯」などの方剤(複数の生薬の組み合わせ)を共有し、テキストとして中国の古典医学書が用いられる。しかし両者には多くの違いがあり、漢方医学の特徴としては具体的・実用主義的な点が挙げられる。現在の漢方の主流である古方派[4]では、中国医学の根本理論である陰陽五行論を観念的であると批判し排除したため、漢方には病因病理の理論がなく、証(症とも。症状)に応じて『傷寒論』など古典に記載された処方を出すのが主流である[5]。証を立てるための診断法としては、脈診を重視し腹診がすたれた中医学とは対照的に、腹診を重んじ脈診はあまり活用されない[6]。また、使われる生薬の種類は中国より少なく、一日分の薬用量は中国に比べて約3分の1である[6][1]。漢方医学の処方は、『傷寒雑病論』(現在では、『傷寒論』(しょうかんろん)及び『金匱要略』(きんきようりゃく)と呼ばれる2つのテキストとして残る)を基本とした古い時代のものに、日本独自のマイナーチェンジを加えたものである。「温病」(うんびょう)など、明から清にかけて中国で確立した理論はほとんど漢方医学には受け継がれていない[5]。
目次
呼称
16世紀以降、西洋医学が日本に導入されて南蛮医学、紅毛医学と呼ばれたが、江戸中期には西洋医学をオランダ人がほぼ独占するようになり、蘭方または洋方と称された。これに対して、中国医学系の従来の医学を漢方と呼ぶようになった[6]。幕末から国学と漢学を尊皇的に皇漢学といい、明治14年ころから和漢学と称されたが、それに伴い漢方も皇漢医学、和漢医学と呼ばれた。日清戦争以降、西洋と対になる東洋という用語が定着したと考えられており、昭和25年に日本東洋医学会が設立されて、東洋医学という呼び方も一般的になった。現在日本の東洋医学業界では、漢方医学(古典医学書に基づく薬物療法)と鍼灸医学(経穴などを針や灸で刺激する物理療法を)を合わせて東洋医学と呼んでいる。
診察法
概説
症状を含めたその患者の状態を証(しょう)と呼び、証によって治療法を選択する。証を得るためには、四診を行うだけではなく、患者を医師の五感でよく観察することがまず必要である。
西洋医学では、患者の徴候から疾患を特定することを「診断」と呼び、これに基づいて疾患に応じた治療を行う。しかし漢方医学では、治療法を決定すること自体が最終的な証となる。例えば葛根湯が最適な症例は葛根湯証であるという。
証の分類と治療法の選択について、以下のようにさまざまな理論化がなされた。
気血水理論
例えば気血水理論では、
- 気(き)
- 人間の体の中を巡っている仮想的な「生命エネルギー」のようなものテンプレート:Sfn。
- 血(けつ)
- 体内を巡り組織に栄養を与える。血液がそれに近いテンプレート:Sfn。
- 水(すい)
- 血液以外の体液がそれに相当するテンプレート:Sfn。
の3つの流れをバランスよく滞りない状態にするのが治療目標になる。
本ページ「気血水」の項、参照のこと。
陰陽五行理論
テンプレート:See also 陰陽五行論も中国医学の理論化に用いられた。ただし、現在の漢方は、陰陽五行論を観念的として除した古方派[7]が主流であり、診断・処方にはほとんど用いられない[5]。
四診
治療法を決定するためには四診(望、聞、問、切)を行う。
- 望診(ぼうしん)
- 医師の肉眼による観察。体格、顔色、舌の状態等。特に舌の観察をもとにした診断を舌診(ぜっしん)と呼び重要視される。
- 聞診(ぶんしん)
- 問診(もんしん)
- 切診(せっしん)
表裏と虚実
実は体力の充実している状態、虚は体力の衰えている状態であるが、体のどこが虚しているかが重要である。
- 表実証 - 悪寒、頭痛、発熱があっても発汗しない
- 表虚証 - 悪寒、頭痛、肩こりがあり、脈が浮弱で、発汗しやすい
- 裏実証 - 腹部が充満し、便秘・口渇があり、脈が沈で力がある
- 裏虚証 - 腹部が力なく、食なく、下痢・嘔吐しやすく、脈が沈で弱い
気血水
気血水説は古医方を唱えた吉益東洞の考えを、長男の吉益南涯が敷衍した理論であると日本では言われているが、『黄帝内経』に同じような記述も見られる節もあり、表現が違うだけで東洞が考えたというのは甚だ疑わしいとする声もある[8]。
- 気滞証(きたいしょう)
- 「気」の鬱滞が病気を起こすという発想は古くからみられ、後藤艮山によって大いに唱えられた。血も水も気によって動かされるので、気の鬱滞は血、水の鬱滞をもたらす。
- 瘀血証(おけつしょう)テンプレート:Sfn
- 俗に「ふる血」と呼ばれる状態で「血」と呼ばれるものが停滞した状態である。
- 痰飲証(たんいんしょう)
- 痰は水、すなわち喀痰を含んだ体液全般を指す。狭義には胃内の停水をいう。
排毒
漢方医学における体からの毒素を排出(いわば「瀉」)する際に重視したもの
- 吐方(とほう) - 吐かせる
- 汗方(かんぽう) - 汗をかかせる
- 下方(げほう) - 下痢をさせる
などの施術があげられる。
主流医学との比較と漢方医学の位置づけ
テンプレート:独自研究 漢方医学のこれらの理論は、近代以降主流医学となった西洋医学から「非還元主義的である」「非科学的である」「あんなものは医学ではない」などと批判されることとなる。
しかし、漢方医学はもともと非還元主義的な、直感主義的な診察を選り好んで採用してきたのではなく、漢方医学が発達を遂げた古代から中世までの時代においては、そうした診察法しか方法論的にありえなかった、という反論がなされている。
また逆に現代の医療が、「還元主義的な医療」を念頭に置くあまり臨床検査データに頼りすぎ、それゆえにかえって見えなくなる領域、治せなくなる病症がある状況を鑑みれば、非還元主義的な漢方医療が現代においては、それに対する欠くべからざる補完的役割を果たしていることが指摘される。
さらに「患者を医師の五感でよく観察すべし」という診察法は、どのような医学を修めた医師にとっても共通の指針であるともいえよう。
漢方医学など現代における標準的な医療と体系が異なる医療を支持する人間は、現代の主流医学(mainstream medicine)を指して「西洋医学」と好んで称する。しかしいわゆる西洋医学と言われる医療体系は、その起源を西欧に置くのは確かであるが、現代においては、中華人民共和国及び中華民国を除くほぼすべての国における医療制度はこれを標準としており、「西洋」という地域的な冠称はすでにそぐわない。また、西洋発祥の医療の中にも、カイロプラクティックやホメオパシーなど、主流医学と体系が異なる、非標準的な代替医療(alternative medicine)とされるものもある。欧米では東洋医学は代替医療ないしは補完医療(complementary medicine)のひとつとされており、マッサージ、サプリメントやアーユルヴェーダなどと同列の位置づけである。しかし、日本では歴史的には漢方の方が主流医療であった時代が長く、西洋医学の代替ではなく西洋医学と並ぶ医学体系としてとらえられていた点が、欧米とは事情が異なる。近年は日本・欧米とも漢方の処方や方法論が主流医学にも積極的に取り入れられており、漢方薬と一般薬(西洋薬)が併用されることも多くなっている。中国では、現代医療の方法論を用いる「西洋医」と、中国伝統医学を発展させた「中医」が並立しており、「東洋医学」と「西洋医学」を並立させる考え方に近い医療制度を構築している。
具体的な処方
歴史
「中医学」の歴史で漢方医学が日本に入ってくるまでの歴史を記す。
中国大陸
古代
殷代の甲骨文などには「医」「薬」といった文字は見当たらず、未だ人々のあいだに医療という概念がなかったものと思われるが、やがて巫祝(ふしゅく)と呼ばれる、集落の神事とともに人々の病も癒す呪術師的存在があらわれることになる。最初の医療は、今でいう「占い」「魔よけ」にあたるものが主流であったが、やがてそこへ生薬などの「薬物療法」や、鍼灸の原初的段階が組み入れられていく。それとともに巫祝も、巫を専門とする神官的な存在と、医を専門とする医師的な存在に別れていったと考えられている。
こうして秦以前にも扁鵲(へんじゃく)などの名医の存在が数々の記録に残っており、たとえば扁鵲は六不治の一つとして「巫を信じて医を信じざればすなわち不治」をかかげ、すでにこの時代に医者と呪術師的な存在、すなわち医学と宗教とは明確に分離されていたことをうかがわせる。
中古
前漢(紀元前202年~紀元8年)の時代には『黄帝内経』という現在知られている最古の医書が編纂されている。後漢(25年~220年)の時代に張仲景により『傷寒雑病論』が編纂される。ただ、この『傷寒雑病論』は、長い戦乱で散逸し、雑病の部分だけが見つからず、『傷寒論』だけが残り、孫思邈の『千金要方』などに、引用文などが書かれてはいたものの、『雑病』にあたる部分は発見されずにいた。北宋時代に王洙が『金匱玉函要略方』を発見し、その後半部分が『雑病』の部分にあたるとして、林億らによって、『傷寒論』と重複する部分を分けられ、『金匱要略(正式名称は金匱要略方論)』として、世に出回ることになる。張仲景は『傷寒雑病論』の序文において、『黄帝内経』を理解してから読まなければならないと書いているため、『黄帝内経』も読まずに『傷寒論』『金匱要略』を軽々しく扱うことを疑問視する流派もある。『傷寒論』は現在医学での流行性感冒と推測される急性熱性疾患をモデルに病勢の進行段階と治療法を論じたとする流派もあるが、『傷寒』とは狭義の意味は急性熱性疾患であるが、広義は熱性疾患のみに留まらぬ意味もあるため、これもまた意見の分かれるところでもある。伝統中国医学は張仲景によって初めて理論的に体系化されたともいわれる。
中世
金・元時代(960年~1367年)には金元四大家と呼ばれた劉完素、張子和、李東垣、朱丹渓らが現われる。『黄帝内経』の理論を元に六淫理論、四傷理論といった新しい理論が表された。一方南宋では「太平恵民局」という公立の薬局が設けられて医者や官民に良質な薬を提供するシステムが構築され、宋慈が『洗冤集録』という世界初の本格的な法医学書を著しており、こうした成果は南宋を滅ぼした元王朝にも継承された。
また、明の時代に医師の李時珍が『本草綱目』を著して薬学・本草学の分野でも大きな進歩があった。
日本
古代~中世
日本には遣隋使・遣唐使によって、また朝鮮経由で中国から伝えられた。8世紀に日本に戒律を伝えた鑑真は医学にも精通したとされ、756年に崩御した聖武天皇の御物を納めた東大寺正倉院には多くの薬品が納められている。982年には現存する日本最古の医書『医心方』が丹波康頼によって編纂された。13世紀頃には禅宗の僧が医学の担い手となった。14世紀を代表する医師として『頓医抄』の梶原性全や『福田方』の有隣が知られている。
中世後期
日本で現在の漢方医学といわれるものが発展するのは16世紀になってからであった。明に留学した田代三喜は金元医学を学んだ。その弟子であり織田信長に重用された曲直瀬道三は金元医学を解説した『啓迪集』を著わし、また医学舎「啓廸院」を創り息子の曲直瀬玄朔をはじめとして多くの弟子を教えた。金元医学を元にした医学はのちに後世派(ごせいは)と呼ばれる。この時代に医学と宗教の分離が行われた。
近世
17世紀には名古屋玄医が『傷寒論』への回帰を訴えた。後藤艮山が玄医の考え方を発展させ、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞らがこれに続いた。この流れは古方派(こほうは)と呼ばれる。後世派が陰陽理論や五行理論といった抽象的な理論に基づくのに対し、古方派は実証的に『傷寒論』を解釈することに務めた。これは杉田玄白ら蘭学医にも影響を与え、華岡青洲による世界最初の麻酔手術にもつながっていく。しかし古方派の実証主義が結果的には西洋医学流入に伴い漢方医学が衰退する一因となる。
後世派と古方派はしばしば対立したが、後世派の祖である曲直瀬道三も『傷寒論』を軽視していたわけではなく、古方派の後藤艮山は「一気留滞論」を唱え、香川修庵は医学における陰陽五行説を否定するなど、『傷寒論』などの古典を無批判に肯定していた訳ではない。
近代
明治政府の政策により1874年以降は西洋医学を学び医師免許を取得しなければ医師と名乗ることが出来なくなった。現在でもこの規程は有効であり、純粋の漢方医は日本には存在しない(なお、漢方医の運動により1895年に医師法改正案が出されたものの、わずか28票差で否決されている)。ここに至り遂に漢方は壊滅の危機に瀕したが、医師免許を取得した医師が漢方医学の研究・診療することまでは否認されていなかった。1910年に和田啓十郎が『医界之鉄椎』、その弟子の湯本求眞が『皇漢医学』(1928年)を著わし漢方医学の復権を訴え、西洋医学を学んだ医師が漢方も学び実践する形で生き長らえた。
また僧侶の森道伯が後世派の流れを汲む一貫堂医学を築き上げたが、森道伯自身は医師免許が無く、矢数格や矢数道明など多くの医師が弟子として一貫堂に入門してきたため、門人たちによって一つの流派を形成するにいたった。なお、矢数道明はのちに大塚敬節と出会い、日本漢方医学会を結成して、ともに昭和漢方の復興を牽引することとなった。
現代
1950年には日本東洋医学学会が発足した。1976年には漢方方剤のエキス剤が健康保険適用になり、広く用いられるようになった。現在、漢方の担い手の主体は医師というよりは薬剤師や鍼灸師であり、漢方薬局であるが、昨今では漢方医学に関心や理解を示す医師も多くなった。ただし、現代医学と体系を異にする漢方医学を十分に理解して実践している医師は一握りと言われているが、これは当然薬剤師や鍼灸師にも当てはまる事である。
世界の中の中国医学と現在
中国医学を源とする医学は、中国(中医学)、日本(漢方)以外にも、朝鮮半島(古くは東医、現在の韓国では韓医学、北朝鮮では高麗医学と呼ばれる[9][10])、ベトナム(南医学)などアジアの広い範囲で行われている[11]。東南アジアの伝統医学も、その多くがアーユルヴェーダと共に中国医学の影響を受けている。
また、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアなどでも中国医学系の伝統医学(Traditional Chinese medicine (TCM))は注目され、広く実施されている。オーストラリアは西洋文化圏で最も中医学が発展しており、2012年には全国で中医の登録制度が実施された[12]。アメリカでは50州の内44州で鍼灸が合法化され、カナダやイギリスでも中医診療所は増加傾向にある[13]。アメリカ国立衛生研究所(NIH)では、中医学中心に伝統医学の研究が行われ、アジアの生薬療法の研究に大きな予算が割かれている。アジアの伝統医学の研究は2003年の段階で、NIHの中のアメリカ国立補完代替医療センター(NCCAM)と国立がんセンター(NCI)を合わせて250億円ほどの規模で行われており、その成果はアメリカに独占されている[14][15]。
中国医学系の伝統医学は、代替医療・統合医療の分野で世界的に活用され、グローバル化が進んでおり、標準化が課題となっている。中心地である日中韓の伝統医学は、共有する部分も大きいが理論・用語・処方に様々な違いがあり、政治的な影響もあり足並みはそろっていない。これは、アジアのハーバルメディスン(漢方薬)の標準化を目指すアメリカに対し、アジアの伝統医学にとって大きな不安材料となっている[14]。日本は政府・医学会共に、中国医学の国際化・アメリカ主導の標準化の流れに関心が薄く、中国、韓国、香港、台湾などと異なり伝統医学を扱う政府のセクションは存在しない。国際的にも漢方への理解は低く、外交面で大きく立ち遅れているのが現状である[15]。
脚注
参考文献
関連項目
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外部リンク
- 「日本漢方」のお話 著者:山ノ内慎一、監修者:山田光胤 東亜医学協会
- 漢方理論の基本 松本克彦 メディカルユーコン
- 診断について 大阪大学大学院医学系研究科 漢方医学寄附講座
- 漢方専門医認定機関 日本東洋医学会 一般の方向けのページ
- 「漢方の歴史」小曽戸洋 日本医史学会神奈川地方会だより10
- 「東洋医学の歴史と現代」大塚恭男 日本東洋醫學雜誌47 社団法人日本東洋医学会
- 「漢方医学の歴史 : 臨床家が漢方医学の歴史をふまえることとは」浅岡俊之 日本東洋醫學雜誌58 社団法人日本東洋医学会
- 「東アジア伝統医学に於ける日本漢方」 山田光胤 日本東洋醫學雜誌50 社団法人日本東洋医学会
- 上方・なにわの漢方 大阪大学大学院医学系研究科 漢方医学寄附講座
- 東洋医学の力を知れ - 西部邁ゼミナール
- ↑ 1.0 1.1 松本克彦編著『今日の医療用漢方製剤-理論と解説』メディカルユーコン、1997年
- ↑ 真柳誠 「西洋医学と東洋医学 『しにか』8巻11号
- ↑ 漢方Q&A 慶應義塾大学医学部漢方医学センター
- ↑ 古方派 薬学用語解説 公益社団法人日本薬学会
- ↑ 5.0 5.1 5.2 小髙修司 『中国三千年の知恵 中国医学のひみつ なぜ効き、治るのか』〈講談社ブルーバックス〉講談社 1991年
- ↑ 6.0 6.1 6.2 大塚恭男 『東洋医学』 岩波書店(1996年)
- ↑ 日本における中国伝統医学の流れ<明治以前> 大塚恭男 漢方の臨床 東亜医学協会
- ↑ 大塚敬節 『漢方医学』 創元社(大阪) ISBN 4-422-41110-1
- ↑ 고려의학 북한용어사전 코리아콘텐츠랩 & 중앙일보 통일문화연구소
- ↑ 高麗医学科学院で経絡討論会 朝鮮新報
- ↑ 真柳誠「日韓越の医学と中国医書 『日本医史学雑誌』56巻2号
- ↑ オーストラリア中医見聞録 東洋学術出版社
- ↑ 世界で広まりつつある中医学の輪 東洋学術出版社
- ↑ 14.0 14.1 漢方薬の国際性を目指して 曹基湖 日本東洋醫學雜誌56 社団法人日本東洋医学会
- ↑ 15.0 15.1 漢方国際化の問題点 渡辺賢治 日本東洋醫學雜誌56 社団法人日本東洋医学会