藤原敏行
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藤原 敏行(ふじわら の としゆき、生年不詳 - 延喜7年(907年)、または、延喜元年(901年))は、平安時代初期の歌人、書家。藤原南家、藤原巨勢麻呂の後裔。陸奥出羽按察使・藤原富士麻呂の子。官位は従四位上・右兵衛督。三十六歌仙の一人。
経歴
貞観8年(866年)少内記。のち、図書頭・因幡守・右兵衛権佐を経て、仁和2年(886年)右近衛少将に任ぜられ、この間の元慶6年(882年)には従五位上に叙せられている。右近衛中将を経て、寛平7年(895年)蔵人頭、寛平9年(897年)従四位上・右兵衛督に至る。
三絶の鐘
小野道風が古今最高の能書家として空海とともに名を挙げたが、現存する書跡は、署名のある次のものだけである。
- 神護寺鐘銘
- この銘は、禅林寺の真紹の発願によるものであるが、鋳型が出来上がる前に真紹が歿したので、和気彝範が遺志を継ぎ、貞観17年(875年)8月23日、志我部海継を雇い鋳成したことが序文に示されている。全文32行で、字数は245字である。謹厳な楷書で陽鋳(ようちゅう、浮き彫り)されている。隷書をよくした小野篁および紀夏井の流れを汲んだ勁健な書法である。なお、この銘文の序は橘広相、銘は菅原是善、書は敏行と、当時の三名家がそれぞれ成したので、古来「三絶の鐘」と呼ばれている。この神護寺の梵鐘は国宝。
逸話
『宇治拾遺物語』によれば、敏行は多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りも書いたが、魚を食うなど、不浄の身のまま書写したので、地獄に落ちて苦しみを受けたという。
他にも亡くなった直後に生き返り自らのお経を書いて、ふたたび絶命したという伝説もある。
代表歌
勅撰歌人として、『古今和歌集』(18首)以下の勅撰和歌集に28首が入集[1]。家集に『敏行集』がある。
- すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ(古今和歌集、百人一首18、)
- 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(古今和歌集、秋歌上、169)
- 白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢに染むらん
系譜
- 父:藤原富士麻呂
- 母:紀名虎の娘
- 妻:紀有常の娘(在原業平室の姉妹)
- 妻:小野岑守の娘
- 男子:藤原有快
- 妻:紀吉女
- 男子:藤原伊辛
- 妻:多治弟梶の娘
- 男子:藤原伊衡(876-939)
- 妻:藤原休樹の娘
- 男子:藤原伊望
- 生母不明:
- 男子:藤原季方
脚注
参考文献
- 『日本と中国の書史』 - 社団法人 日本書作家協会発行 木村卜堂編著
- ↑ 『勅撰作者部類』