土御門天皇
土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年12月2日(1196年12月23日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。
系譜
後鳥羽天皇の第一皇子。母は、久我通親(源通親)の養女(実は法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子。
- 中宮:藤原(大炊御門)麗子(陰明門院)(1185-1243) - 大炊御門頼実女
- 典侍:源(土御門)通子(?-1221) - 源通宗女
- 宮人:高階氏(美作掌侍) - 高階仲資女
- 皇女
- 道仁法親王(1209-1263) - 園城寺長吏
- 宮人:源氏 - 源貞光女
- 秀子女王
- 宮人:某氏(尾張局) - 法橋覚安(覚宴?)女
- 尊守法親王(1210-1260)
- 宮人:源氏 - 法印尋恵女
- 宮人:藤原氏(治部卿局) - 法印定勝女
- 道円法親王(1210-1240) - 蓮華光院
- 信子女王
- 宮人:源氏(大宮局) - 源有雅女
- 宮人:藤原氏 - 法眼円誉女
- 最仁法親王(1227?-1295) - 天台座主
- 宮人:藤原氏(宮内卿局) - 藤原範光女
- 知子女王
- 宮人:藤原氏 - 律師兼尊女
- 増仁 - 延暦寺
- 宮人:源氏(左京大夫局) - 僧都証遍女
- 宮人:某氏(丹波局) - 法橋雲顕女
- 是子女王
- 生母不明
系図
略歴
建久9年1月11日(1198年2月18日)、父・後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚。立太子はしていなかった。同年3月3日(4月10日)、即位。事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないと見た後鳥羽上皇は、退位を迫り、承元4年11月25日(1210年12月12日)、異母弟の順徳天皇に譲位し、同年12月5日(12月22日)、上皇。
京都では、外祖父である源通親が別当として権力を掌握し、鎌倉では正治元年1月13日(1199年2月9日)に源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われていた。
承久3年(1221年)の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに、自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。後に、より都に近い阿波国に移された。鎌倉幕府も後鳥羽・順徳両上皇とは違って、守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇振りを見せている。その地は、現在の阿波市御所で、土御門上皇行宮址と刻んだ石碑がある。
寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御。
一説には日蓮宗の開祖日蓮は、この土御門天皇の皇胤であると言われている。
諡号・追号・異名
土佐、阿波に流されたことから、土佐院、阿波院の別称がある。
在位中の元号
- 建久 (1198年1月11日) - 1199年4月27日
- 正治 1199年4月27日 - 1201年2月13日
- 建仁 1201年2月13日 - 1204年2月20日
- 元久 1204年2月20日 - 1206年4月27日
- 建永 1206年4月27日 - 1207年10月25日
- 承元 1207年10月25日 - (1210年11月25日)
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、京都府長岡京市金ヶ原金原寺にある金原陵(かねがはらのみささぎ)に治定されている。公式形式は八角丘。
徳島県鳴門市大麻町池谷には土御門天皇を御祭神とする阿波神社があり、境内に火葬塚がある。
皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また、大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮では、祭神として祀られている。