文七元結
文七元結(ぶんしち もっとい)は、三遊亭圓朝の創作で、落語のうち、人情噺のひとつ。登場人物が多く、長い演目であり、情の中におかし味を持たせなくてはならないという理由から、難しい一題とされ、逆に、これができれば一人前ともいわれる。『人情噺文七元結』(にんじょうばなし ぶんしち もっとい)として歌舞伎でも演じられる。
成り立ちは、幕末から明治初期にかけての江戸。薩摩・長州の田舎侍が我が物顔で江戸を闊歩していることが気に食わず、江戸っ子の心意気を誇張して魅せるために作ったとされる。江戸っ子気質が行き過ぎて描写されるのはこのためである。
目次
概要
中国で伝承されてきた話をベースに、三遊亭圓朝(初代)が創作した人情噺の大ネタである[1]。1889年(明治22年)の『やまと新聞』に速記が載っている[1]。
「元結(もとゆい、もっとい)」とは、髷(まげ)の根を結い束ねる紐のことで、「文七元結」は江戸時代中期に考案された、実在する元結である[2]。長くしつらえた紙縒(こより)に布海苔と胡粉を練り合わせた接着剤を数回にわたって塗布し、乾燥させたうえで米の糊を塗って仕上げた元結が「文七元結」であり、「しごき元結」「水引元結」とも称した[1]。「文七元結」の名称は、桜井文七(後述)という人物の考案とも、下野国(栃木県)産の文七紙を材料として用いるからともいわれている[1]。
登場人物
登場人物は、落語版、歌舞伎版、また演者によってそれぞれ多少異なるが、以下にあげるものは圓朝の口述による。物語の登場順に大略を記す。
- 長兵衛(左官)
- お兼(長兵衛の妻)
- 藤助(吉原京町の大店「角海老」の番頭)
- 女将(「角海老」の女将)
- お久(長兵衛の娘)
- 文七(白銀町鼈甲問屋、近江屋の奉公人)
- 卯兵衛(近江屋の主人)
- 平助(近江屋の番頭)
「角海老(かどえび)」は「佐野槌(さのづち)」と圓朝が演じた記録もあり、今日では多くの演者が「佐野槌」で演じる[注釈 1]。
「近江屋」の所在地は、白銀町とするものと日本橋横山町とするものがある。
終盤、近江屋卯兵衛が祝儀の酒と切手を買い求めてくる酒屋小西は、「あたご小西」と名を変え店舗の場を移して現存している。
あらすじ
江戸は本所達磨横町(墨田区)に住む左官の長兵衛は、腕は立つのだが、無類のばくち好きが高じて、仕事もせずに借金を抱えている[1]。年の瀬も押し迫るある日、前夜の負けがこんで、身ぐるみ剥がれて半纏一枚で賭場から帰されると、女房のお兼が泣いている。聞くと、娘のお久がいなくなったという。どうしたのかと、夫婦喧嘩をしているところに、普段より世話になっている吉原の女郎屋の大店「角海老」から使いのものがくる。取り込み中だから後にしてくれというと、他でもない、その娘のお久のこと、角海老の女将の所に身を寄せている[2]。
女房の着物を一枚羽織って角海老へ行ってみると、お久は、身売りをして金を工面し、父に改心してもらいたいので、お角のところへ頼み込んだのだという。女将は、自身の身の回りをさせるだけで店には出さないから、次の大晦日までに金を貸してやるが、大晦日を一日でも過ぎたら、女郎として店に出すという約束で、長兵衛に50両の金を渡す[2]。
情けない思い、しかし改心しきった長兵衛が、帰り道に吾妻橋にさしかかると、身投げをしようとしている男にでくわす。訳を聞くと、白銀町の鼈甲問屋「近江屋」の奉公人(文七)で、さる屋敷へお使いを頼まれて集金した帰りに50両の大金をすられたので、死んでお詫びをしようというところだった。「死んでお詫びを」「いや、死なせねぇ」と押し問答が続いた後、長兵衛は、自分の娘のお久が身を売って50両を工面してくれたことをはなし、その金でお前の命が助かるのなら、娘は死ぬわけではないのでと、無理矢理50両を押し付けて、逃げるように帰ってゆく[2]。
文七がおそるおそる主人卯兵衛の元に帰り、長兵衛からもらった金を差し出すと、それはおかしい、お前が遣いにいった先で碁に熱中するあまり、売掛金をそっくりそのまま忘れてきてしまったものを、先方は既に届けてくれて金はここにある、一体どこから、また別の50両が現れたのかと、主人が問いただすと、文七は事の顛末をあわてて白状する。
翌日、卯兵衛は何やら段取りを済ませ、文七をお供に長兵衛の長屋へとおもむく。実は文七が粗相をやらかし…と、事の次第を説明し、50両を長兵衛に返そうとするが、長兵衛は「江戸っ子が一度出したものを受け取れるか!」と受け取らない。もめた挙句に長兵衛ようやく受け取り、またこれがご縁ですので文七を養子に、近江屋とも親戚付き合いをと、祝いの盃を交わし、肴をと、表から呼び入れたのが、近江屋が身請けをしたお久。後に、文七とお久が夫婦になり、近江屋から暖簾を分けてもらい、麹町6丁目に文七元結の店を開いたという[1][2]。
長兵衛が文七に金を渡す動機
我が娘を犠牲にしてまで赤の他人に金を恵む。この常人では到底不可能な事をしてのける長兵衛がどういう動機で金を恵むかについて、演者により様々な解釈がある。6代目三遊亭圓生、5代目古今亭志ん生は娘は傷物になっても死ぬわけではないがお前は死ぬという、見殺しにしては寝覚めが悪いからと嫌々ながらに金をやる。林家たい平や柳家喬太郎もこの流れである。
対して林家彦六(8代目正蔵)や柳家小三治 は50両のために主への忠義を通して死のうとする文七に感じ入り、所詮自分には縁のなかった金と諦めて女郎屋に借りた金を返さないと覚悟を決めた上で与えてしまう。金に対する未練がみじんもない点に特徴がある。
おもな演者
三遊派のネタとして、初代三遊亭圓右、4代目橘家圓喬、5代目三遊亭圓生、6代目三遊亭圓生、林家彦六(8代目林家正蔵)、5代目古今亭志ん生、3代目古今亭志ん朝など歴代の大真打が得意とした。
名演とされるものに6代目三遊亭圓生のものがあり、すべての面で他の手本となるような緻密な演出は今なお評価が高い[1]。8代目正蔵、病後のゆっくりした口調の5代目志ん生も名演といわれる[1]。志ん生は貧乏を知り尽くしたゆえの深い味わいがあると評される[2]。その子志ん朝の噺は特に50両を文七にあたえるまでの長兵衛の心理描写の鮮やかさに定評がある[2]。
演者による様々な改作
不自然な部分が多いため、演者によって色々な改作が施されている演目でもある。
3代目古今亭志ん朝は真夜中にお久が一人で本所から吉原まで歩くのは不自然であるとして、大引け(午前2時)過ぎから中引け(午前12時)過ぎに時刻を変えている。
3代目三遊亭円丈は結末で唐突にお久と文七が結ばれる点を、以前から恋仲であったという伏線を張った上で、2日間にわたる話を大晦日1日の出来事に短縮している。
立川談春は50両もの大金を、どんなに高給な左官職でも年内で返済できる筈がないとして、返済期限を2年に延ばしている。
桜井文七
初代桜井文七は実在人物である。天和3年(1683年)美濃国(岐阜県)生まれで信濃国(長野県)飯田で修行したあと江戸で活躍し、宝暦3年(1753年)飯田に戻り、同地の長昌寺に葬られた。江戸で有名な元結屋で、代々「文七」を襲名されていたため圓朝がモデルにしたと伝わる。2010年(平成22年)に長昌寺で奉納落語が行われた[3]。
脚注
注釈
参照
参考文献
外部リンク
テンプレート:古典落語の演目- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 『落語CD&DVD名盤案内』(2006)pp.348-349
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 『CD付 落語入門』(2008)pp.156-157
- ↑ 「奉納落語 立川談四楼」『日本経済新聞』2010年10月22日夕刊。
引用エラー: 「注釈」という名前のグループの <ref>
タグがありますが、対応する <references group="注釈"/>
タグが見つからない、または閉じる </ref>
タグがありません