山形城
山形城(やまがたじょう)は、山形県山形市霞城町にあった日本の城。別名は霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれる。また、吉字城とも呼ばれた[1]。国の史跡に指定されている。
目次
概要
おおよその城郭構造の基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたものである。江戸時代には山形藩の政庁が置かれた。現在は、そのほとんどが失われ、二の丸跡が霞城公園として残されている。建造物では、大手南門が、市内の万松寺山門として移築され現存する。また、市内八日町宝光院の本堂は、御殿の建物を移築したものといわれている。(県指定文化財)
山形市は、2033年をめどに本丸全体の発掘調査を完了させるとともに、本丸北枡形の復元を完了することを計画している。2012年度末現在、本丸は一文字門及び御殿等の写真・図面などの史料が発見されていないことにより、大型建築物の復元のめどは立っていないが、本丸大手門の高麗門及び土塀は時代考証に基づき復元が行われている。2013年の発掘調査は本丸西側濠の遺構が中心となり、本丸濠南西部に関しては本丸土塁構築が出来る状態となっている。2013年の発掘調査では三の丸跡から奈良・平安時代のものと推定される竪穴住居跡6棟が発見され、城下町は古代から存在した集落を基盤として形成されたのではないかとみられている[2]。
歴史・沿革
近代以前
- 1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部、1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)には、初期の山形城が築城される。
- 最上義光が、慶長年間に城郭を拡大、城下町を整備し、関ヶ原の戦いの功で得た出羽57万石の本城となる。
- 最上氏が転封された後、鳥居忠政により改修がなされる。
- 鳥居氏以後、たびたび藩主の変更があり、改修もなされたが、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、江戸中期以降は城の維持が困難になる。幕末には本丸は更地で、御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となっていた。
歴代城主
山形藩も参照。
- 最上氏 (1356 - 1622)
- 鳥居氏 (1622 - 1636)
- 保科氏 (1636 - 1643)
- 越前松平家 (1644 - 1648)
- 松平氏 (1648 - 1668)
- 奥平氏 (1668 - 1685)
- 堀田氏 (1685 - 1686)
- 越前松平家 (1686 - 1692)
- 松平氏 (1692 - 1700)
- 堀田氏 (1700 - 1746)
- 大給松平家 (1746 - 1764)
- 天領 (1764 - 1767)
- 秋元氏 (1767 - 1845)
- 水野氏 (1845 - 1870)
近代
- 明治時代、城が売りに出されると、山形市が購入し、陸軍の駐屯地を誘致した。歩兵三十二連隊の兵営敷地となり、城内の櫓や御殿は破却され、本丸は埋め立てられた。三の丸の堀も埋め立てられ耕作地として利用された。
- 日露戦争凱旋を記念して歩兵三十二連隊の帰還将兵が、明治39年に周囲にソメイヨシノを植林。以降桜の名所となった。
現代
- 戦後、二の丸の内側は霞城公園になり、二の丸の外側は市街地化が進み、三の丸の濠も埋め立てられた。
- 1986年(昭和61年) 国の史跡に指定され、江戸末期の資料に基づいて、東追手門や本丸の復元が行われる。
- 1991年(平成3年) 二の丸東大手門が修復及び復元される。この門の規模は江戸城の城門に匹敵する。
- 2006年(平成18年) 本丸の正門に当たる一文字門に架かる大手橋が復元される。
- 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(10番)に選定される。
- 2013年(平成25年) 本丸大手門枡形内の高麗門及び土塀が復元される。
構造
規模
山形城三の丸の広さが235万m2であり、城自体の建物や構造など異なるが、日本国内では5番目の広さで、奥羽地方では最大の城であった。しかし、度重なる藩主交代に伴って石高が削減される一方の山形藩にとっては、維持することすら困難となる広さであった。そのため、手入れが行き届かず、秋元氏時代(明和4年〈1767年〉)には二ノ丸東大手門の門中央の破損が著しいことから、修理した際に多門櫓が渡る櫓門であったものを、傷みの著しい中央部分のみを修理したため平櫓2基の間に渡すような姿となっていた。その様子は、明治初期に撮影されている。幕末期の水野氏5万石時代には荒廃したままである部分もあった。
- 山形城外郭(三の丸) :2,350,000 m2
- 霞城公園(山形城二の丸、内郭): 359,000 m2
- 姫路城外曲輪 :2,330,000 m2
- 姫路城内曲輪 : 230,000 m2
- 江戸城(内郭) :2,300,000 m2
- 江戸城外郭は周囲16km。
- 大阪城公園 :1,067,000 m2
- 弘前城 : 490,000 m2
- 松本城 : 391,000 m2
城郭
山形城は、本丸、二の丸、三の丸が、同心円状に配置された輪郭式平城である。二の丸には5つ、三の丸には11の出入り門が作られた。中世の居館を拡張して城郭とし、本丸は御殿のみで天守は造られなかったが二ノ丸に御三階櫓が建てられた。二の丸は一辺500メートルほどの方形、三の丸は1.5キロメートルから2キロメートルほどの楕円形であった。本丸には御殿、二の丸には藩の政庁と御三階櫓が、三の丸には534人の上級、中級の最上家家臣の屋敷、城外には1,326人の家臣の屋敷と寺院が町方を取り囲むように置かれた。 現在地上に残っている、山形城跡を取り囲む水堀は、二の丸の濠であり、良く保存されている。三の丸の水堀は江戸期の終わりごろには埋没し、湿地化していたところが多かった。多くは現在、住宅地などの地下に埋没しているが、発掘調査の結果、良く保存されていることが確かめられた。
本丸
- 建物・郭:御殿、石垣、濠
- 広さ:東西約150m、南北約160m、約7千坪
- 出入り門:一文字門、北不明門
- 二重櫓3基
二の丸
- 建物・郭:濠と石垣、土塁
- 広さ:東西約396m、南北約427m、約51800坪
- 出入り門:4[3]
- 東大手門一ノ門(多聞櫓門)、東大手門二ノ門(高麗門)、南大手門、北不明門、西不明門
- 三重櫓1基 二重櫓5基
三の丸
- 建物・郭:濠と土塁は、明治維新以降破却。現在ではごく一部のみ残っている。
- 広さ:東西約1580m、約南北2090m、約235万m2
- 出入り門:11
- 小橋口、かすがい口、七日町口、横町口、十日町口
- 吹張口、稲荷口、飯塚口、小田口、下条口、肴町口
城周辺
城下
最上氏の城郭建設当時、城の北側には、すぐに馬見ヶ崎川が流れ、濠の水源と総構えの一部した。馬見ヶ崎川は、後の鳥居氏の時代に、現在の流れに、流路を変更されている。
城下町では、三の丸の外周に沿って商家が集まり、城下各地に職人町が作られた。城の東方に寺町が築かれ防衛線の一つとされた。街道は城を中心に放射状に伸びていたが、町の路地は、城下町でよく見られるような、曲がり道や丁字路の多い複雑なものだった。
- 定期市が立つ町。
- 二日町、三日町、四日町、五日町、六日町、七日町、八日町、十日町
- 職人町は、城下の東側に置かれた。
- 材木町、銀町、塗師町、蝋燭町、桶町、檜物町
- 火を扱うもの職人は、馬見ヶ崎川の対岸に置かれた。
- 鍛冶町、銅町
- その他
- 旅篭町、小荷駄町、鉄砲町、肴町、小姓町、寺町
- 街道
- 羽州街道
- 仙台街道
支城一覧
最上義光の時代になると、最上氏は「最上四十八楯(館)」と称される支城を持っていたとされる。しかし、その実態はよく分からない。最大版図の頃には48では足らないほどの支城を持っている。
村山郡
- 荒楯
- 詳細不明。現況は公園、公民館、宅地。遺構は残っていない。山形市内に「荒楯」の地名が残る。山形城からは非常に近い羽州街道沿いにあったようだ。
- 小田島城(東根城)
- 里見民部が居城した。現状は小学校、公園、宅地、酒蔵など。
- 上山城(月岡城)
- 物見山の戦いでは、里見越後、民部が撃って出て上杉軍を撃退し、落城を免れた。
- 楯岡城(鶴舞城テンプレート:要出典)
- 鎌倉時代初期に築かれた城といわれ、室町期に最上氏が入城した(以後、楯岡氏と名乗る)。比高はあまりないものの、周囲が急峻な崖となっている場所が多いため、羽前街道の要衝を守る堅固な山城として最上氏が改易される江戸時代初期まで機能した。戦国時代末期に最上一族の勇将として活躍した楯岡満茂(後に由利本荘に移封された後には一時赤尾津氏、最終的には本荘氏を名乗る)の居城であった。
- 天童城
- 現在舞鶴山公園となっている、天童市中心部の南にある独立丘陵のほぼ全体を利用した山城である。
- 中野城
- 山形城の西方を守る重要な支城の一つ。現在は小学校及び住宅街となっている。中野氏は最上宗家と縁が深く、最上氏が伊達氏の傀儡となった後に最上宗家を継ぎ、天文の乱に乗じて最上氏を中興した最上義守は中野氏の出自である。
- 成沢城(鳴沢城)
- 最上氏の祖、斯波兼頼(しばかねより)の孫、兼義(かねよし)が築城し城主となり、後に成沢氏を称した。天正6年(1578年)の最上義光と上山満兼(かみのやまみつかね)との松原柏木山の合戦の際には山形城の南の守りとなった。最上家改易とともに破却され、本丸跡地は八幡神社及び城址公園となっている。
- 長谷堂城
- 山形城の最も有力な支城の一つ。関ヶ原の戦いに伴い発生した慶長出羽合戦において、怒涛のごとく攻め寄せる上杉勢によって最上家の城の多くはことごとく落城または放棄されたが、その攻撃をしのいだ数少ない城の一つである。この「長谷堂城の戦い」は慶長出羽合戦の中で最大の激戦であり、当時の守将は志村光安であった。
- 畑谷城
- 置賜郡と村山郡の境にある山城。関ヶ原の戦いに伴い発生した出羽合戦の中の激戦の一つ、畑谷合戦の舞台。当時の守将、江口光清は最上義光の城を放棄する旨の命令を拒否し篭城。寡兵よく2日も上杉勢を足止めしたものの支えきれず落城。江口光清は自刃した。
- 谷地城
- 築城時期は不明だが、戦国期には中条氏が居城していた。しかし、中条氏はその領地の北に割拠していた白鳥長久に自身の領地を譲り渡したと言われる。谷地城を受け継いだ白鳥長久は現在の山形県河北町の中心部とほぼ同じ領域を有する城に改修した。なお、最後の谷地城主となった白鳥長久にはさまざまな伝説・逸話がある。そのため、白鳥長久を警戒した最上義光によって暗殺されたといわれる。
- 山辺城
- 上杉軍によって落城したが、関ヶ原の戦い後、最上義光は四男の山野辺義忠を配して治めさせた。その後の最上家改易とともに城は破却された。跡地は現在小学校脇の駐車場(旧役場跡地)となっている。
最上郡
- 鮭延城
- 戦国時代、元々秋田雄勝地方の小野寺氏が領有していた城。小野寺氏を頼ってきた近江源氏佐々木氏の家系とされる鮭延氏が最上氏との争いの最前線となるこの城に居城した。鮭延氏は後に最上氏に臣従し最上氏の重臣として活躍することになった。しかし、後の最上氏改易とともに城を明け渡し、常陸国から入封した戸沢政盛が新庄城を築城するまで居城した。
- 清水城
- 戦国時代、庄内地方の武藤氏、秋田雄勝地方の小野寺氏などと最上郡の領有を争う最上氏の、最上郡における本拠地であった。しかし、最後の城主、最上(清水)義親は父最上義光の死後、最上氏を継いだ最上家親との対立の結果滅ぼされ、後に廃城となった。
別名・その他
- 山形城は、その別名を霞城(かじょう)と呼ばれる。関ヶ原の戦いに関連して、米沢城主直江兼続率いる上杉軍が山形に侵攻し、長谷堂合戦が起こった。その際、現山形市街地の西にある富神山の麓の菅沢に陣を構えた上杉勢からは霞がかかってその位置を隠したことに由来する。
- 山形城のある山形市は、幕末出羽国村山郡に属していた。
現地情報
城跡は霞城公園として整備され、山形県立博物館、山形市郷土館(旧済生館病院本館)、県体育館、野球場などの文化・スポーツ施設がある。また、桜の名所でもある。 現在、博物館、郷土館、野球場など、二の丸内の施設を移設して公園を再整備する計画がある。今は本丸の堀も一部、野球場のために埋められているがこれも復元する計画になっている。また、本丸御殿もその全貌がわるような計画がある。
- 所在地
- 山形県山形市霞城町3ほか
- 交通アクセス
- その他
注釈
- ↑ 三の丸城門の数が11口あり、「十」「一」「口」を縦に続けて書くと「吉」になることに由来する。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 最上義光の大改修の時は5だったが、鳥居氏時代に改築され、4となった。
関連項目
外部リンク
- 霞城公園(山形城跡):山形市観光協会
- 国指定文化財等データベース