瑩山紹瑾
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瑩山紹瑾(けいざん じょうきん、諡号:佛慈禅師、弘徳圓明国師、常済大師。文永5年10月8日(1268年11月21日) - 正中2年8月15日(1325年9月29日))は、日本の曹洞宗の第四祖。生年には文永元年(1264年)説もある。
一般には瑩山禅師と呼ばれる。宗派内では道元を高祖、瑩山を太祖と尊称する。
生い立ち
越前多禰(現在の福井県越前市帆山)の豪族瓜生氏の長男として生まれる。幼名は行生(ぎょうしょう)。母親の熱心な観音信仰の影響を受け、幼少時から信仰心に目覚める。
8歳で永平寺に入り、徹通義介の下で沙弥となる。13歳の時、永平寺2世孤雲懐奘について出家得度。
活動
- 1280年 孤雲懐奘について得度。
- 1285年 諸国行脚に立つ。宝慶寺寂円などを訪ね、比叡山に上って天台教学を学ぶ。
- 1286年 紀伊由良(現在の和歌山県日高郡由良町)の興国寺に心地覚心を訪ねる。
- 1288年 宝慶寺寂円を再訪し、永平寺に帰山。
- 1289年 三代相論により永平寺を下山した義介に従って加賀(現在の石川県金沢市)大乗寺に移る。
- 1295年 阿波国海部郡司が開基した城満寺(現在の徳島県海部郡海陽町)に招かれ、同寺を開山、住職となる(1296年との説もある)。眼可鉄鏡をはじめ、70人余に授戒する。
- 1298年 義介に呼ばれ、加賀国大乗寺に戻る。
- 1300年 義介の代理として大乗寺の修行僧に対し釈尊以来五十二祖の機縁を提唱(=講義)する。後に『伝光録』としてまとめられる。
- 1302年 大乗寺2世となる。
- 1311年 加賀常住寺を開山する。
- 1313年 能登(現在の石川県羽咋市)永光寺を開山する。
- 1320年 後醍醐天皇より「十種の勅問」が下され、奉答する。
- 1321年 能登總持寺を開山する。
- 1322年 後醍醐天皇より總持寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を下される。
- 1324年 『瑩山清規』を著わす。
- 1325年 永光寺にて病没。
思想
開祖道元は祈祷や祭礼を否定はしなかったものの、その対象としては永平寺の僧たちの安全祈願及び寺院周辺の天候回復などの祈願が主であり、最晩年の1249年に『永平寺住侶利親』で「まさに諸方への護持僧参勤事を停止すべし」(大村哲夫論文『仏に代わって祈りを聞くカミガミ』東北大学・東北宗教学所収、2006)と命じたように、他の寺院が行なっているような、寺院以外での加持祈祷を禁じていた。
これに対して永平寺3世となった徹通義介は元に留学して密教の祈祷を学び、仏殿を建て礼仏を取り入れるなど積極的な改革を行った。こうした改革は寂円等の道元の遺風を慕う一派との対立を生み、三代相論とよばれる宗門内の紛争に発展した。
瑩山は師僧義介の遺志を受け継ぎ道元以来の出家修行に加えて密教的な加持、祈祷、祭礼などを取り入れ、永光寺を伝道の拠点として下級武士や商人に禅を広げて修行人口の拡大をもたらした。これには、瑩山が依拠した寺院が、以前の白山系の天台寺院であったことや、兼修禅的傾向の強い法灯派の僧らと瑩山との密接な関係が影響したとも考えられる。
瑩山門下には四哲と呼ばれる明峰素哲、無涯智洪、峨山紹碩、壺菴至簡をはじめとする俊英逸材が多数輩出し曹洞宗興隆の基礎を固めた。また、晩年の道元は女性の出家修行に否定的であったが、瑩山は積極的に門下の女性を住職に登用し、女人成道の思想を推し進めた。
今日の曹洞宗の隆盛は瑩山とその門下によるものであると言ってよく、このため第4世でありながら開祖道元と共に宗祖として尊崇されている。
著書
近年の文献
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