後晋
後晋(こうしん 936年[1] - 946年[2])は、中国の王朝で、五代の一つである[3]。国号は単に晋だが、春秋の晋などと区別するため後晋と呼び習わす[4]。都は開封[5]。前身の後唐と同様、突厥(テュルク)系沙陀族に近い部族の王朝である[6]。
933年11月に後唐の明宗李嗣源が病死し、閔帝李従厚がいったんは即位したものの、934年4月に明宗の仮子の李従珂(末帝)が閔帝を弑し帝位に就いた[7]。明宗の女婿でその信頼も厚く、李従珂とは不和であった石敬瑭(瑭は「王」偏に「唐」)は、河東節度使として契丹に対する防衛拠点の晋陽に派遣され、強大な軍事力を保持していた[8]。後唐の閔帝、末帝はともに石敬瑭に対し、その保持していた強大軍事力から警戒の念を抱いていた[9]。末帝の即位の時期に契丹の南侵が激化し、晋陽方面の兵力を増強しなければならなくなったが、警戒の対象となっていた石敬瑭の軍を増強するわけにもいかなかったため、石敬瑭を天平節度使(山東鄆州)へ転出させようとした[9]。
これに対し、石敬瑭は自身の駐屯する晋陽で後唐に対する反乱を起こし、末帝の討伐軍により包囲される事態となった[9]。石敬瑭は自身の兵力だけでは後唐の討伐軍に対抗できないことから、北の耶律堯骨率いる契丹(遼)に援軍を要請し、この援軍により936年9月に晋陽の包囲が解かれ後唐の討伐軍の多くが投降し、潰滅状態となった[9]。同936年11月に晋陽で契丹の太宗(耶律堯骨)に擁立され帝位につき、国号を「晋」とした[1]。さらに同年閏11月、後晋は契丹軍の力を借りて後唐を滅ぼした[7]。石敬瑭は契丹の援軍を要請する代償として、燕雲十六州とよばれることになる幽州(現在の北京市)、代州(現在の大同市)をはじめとする長城以南の16州を割譲し[* 1]、毎年絹30万匹を歳幣として贈り、臣従の礼をとることとした[12]。
建国にあたっての状況がこのようなことであったため、有力な節度使(藩鎮)の反乱が相次いで起こり、遼[* 2]の圧力とこれに対する臣従外交、江南諸国から節度使に対する謀略が行なわれ、後晋は有力節度使の統制を思うようにはできなかった[5]。
後唐はその正統性を唐朝の復活であることとして後梁と異なり洛陽を都としたが[13]、後梁が都を経済、物流の要衝で財政の観点から重要な拠点である開封を都としたこと[14]と同様に、経済的要請から937年4月に後晋は都を開封とした[5]。
また高祖の代から、後に宋で完成する皇帝独裁体制の萌芽となる内政面での変革で、唐代貴族の末裔を形式的な宰相としていたものを、新興文官を起用し枢密使を兼ねさせて実質的に政権中枢を担わせ、皇帝権の強化が行なわれた[5]。
942年5月に後晋の高祖石敬瑭が病死し、その遺志と異なる2代皇帝少帝が宰相馮道と天平軍節度使景延広によって擁立された[5]。対遼強硬派の景延広が宰相と侍衛親軍馬歩軍都指揮使(中央禁軍総司令官)を兼ねて国政の実権を握り、歳幣の停止と屈辱的外交からの脱却を図ったが、これが944年に二度の遼の南侵を招き、さらには946年11月に遼の太宗による親征が開始された[15]。同年12月に開封は落城し、少帝は遼に拉致され後晋は滅亡した[16]。遼の太宗によるこの侵攻は反遼姿勢をとる後晋の少帝政権に対する懲罰と燕雲十六州以南の華北の支配をもくろんだものであった[16]。けれども遼本国にあった農耕社会の直接支配に対し批判的な遊牧勢力(述律太后の一派)の策動と合わせ、略奪専門の「打草穀騎」と称する部隊による華北地方での激しい略奪に対する漢民族の抵抗により947年4月には撤退を余儀なくされた[16]。
この後晋が滅亡にいたった遼の侵攻に際し、有力節度使の反撃はほとんどなく、高祖石敬瑭の信頼が厚かった河東節度使劉知遠は少帝政権から疎外されていたため、その根拠地晋陽に留まったまま事態を傍観した[2]。後晋が滅亡した947年2月、劉知遠は晋陽において帝位につき国号を漢(光武帝の建てた後漢と区別するために「こうかん」と音読する[4]。)とした[17]。
後晋の皇帝
- 愛宕他 (1997)、p.17 による。
後晋の元号
脚注
注釈
出典
参考文献
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- ↑ 1.0 1.1 愛宕他 (1997)、pp.17-18
- ↑ 2.0 2.1 愛宕他 (1997)、p.19
- ↑ 愛宕他 (1997)、p.3
- ↑ 4.0 4.1 愛宕他 (1997)、p.69
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 愛宕他 (1997)、p.18
- ↑ 愛宕他 (1997)、pp.17,70
- ↑ 7.0 7.1 愛宕他 (1997)、p.16
- ↑ 愛宕他 (1997)、pp.16-17
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 愛宕他 (1997)、p.17
- ↑ 愛宕他 (1997)、p.21
- ↑ 周藤、中嶋 (2004)、pp.120-121,332
- ↑ 愛宕他 (1997)、pp.17,21
- ↑ 愛宕他 (1997)、p.15
- ↑ 愛宕他 (1997)、p.10
- ↑ 愛宕他 (1997)、pp.18-19.
- ↑ 16.0 16.1 16.2 愛宕他 (1997)、pp.19,22
- ↑ 愛宕他 (1997)、p.23
- ↑ 愛宕他 (1997)、p.70
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