永劫回帰

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テンプレート:参照方法 永劫回帰(えいごうかいき、テンプレート:Lang-de)または同じものの永劫回帰Ewige Wiederkunft des Gleichen) とはフリードリヒ・ニーチェの思想で、経験が一回限り繰り返されるという世界観ではなく、超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという思想である。ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。

概要

ニーチェの後期思想の根幹をなす思想であり、『ツァラトゥストラはこう語った』においてはじめて提唱された。

時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。

永劫回帰するのは、終末を迎えることなく時を越えて同一である物にして、且つ万物である。すなわち、永劫回帰は終末における救済というオプティミズムとの対比でしばしばペシミズムと結びつけて語られるが、その一方で、救済されるようにと今の行いを正す、という制約から解放された明るさもある。世界が何度めぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む、という強い生の肯定の思想でもある。その意味で、永劫回帰は生をおろそかにしない超人にのみ引き受けることが可能な、存在と意志との自由の境地である。永劫回帰はたんなる宿命ではなく、自由意志によって招来される世界の根源的なありようなのである。

永劫回帰は生への強い肯定の思想であると同時に、「一回性の連続」という概念を念頭に置かねばならない。つまり、転生思想のように前世→現世→来世と‘生まれ変わる’ものでは決して無く、人生とはカセットテープのように仮に生まれ変わったとしても‘その年その時その瞬間まで、まったく同じで再び繰り返す’というものである。 仮に2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服していたとしよう。命尽きて生まれ変わっていたとしても、2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服している。リセットしてカセットテープを巻き戻しただけの状態になる。これが「一回性の連続」である。それを永遠に繰り返す。故に、己の人生に「否」(いな)と言わず、「然り」(しかり)と言う為、強い人生への肯定が必要なのである。ツァラトストラは自ら育てた闇に食われて死して逝く幻影を見る。最高へは常に最深から。超人は神々の黄昏に力強く現れる。闇を知り、闇を破し、死してなお生への強い「然り」を繰り返す。今、ここにある瞬間の己に強く頷く態度、それこそが超人への道であり、永劫回帰の根幹である。

ニーチェ自身は永劫回帰の思想をほのめかすだけにとどまっている。

ニーチェは『権力への意志』で、物理学のエネルギー保存の法則をその根拠のひとつとしている。

永劫回帰について西部邁(評論家)はこう述べている。「探し当てられるべきは実在真理)なのだが、実在は言葉を住(す)み処(か)とし、そして自分という存在はその住み処の番人をしている、ということにすぎないのだ。言葉が歴史という名の草原を移動しつつ実在を運んでいると思われるのだが、自分という存在はその牧者(ぼくしゃ)にすぎない。その番人なり牧者なりの生を通じて徐々にわからされてくるのは、実在は、そこにあると指示されているにもかかわらず、人間に認識されるのを拒絶しているということである。それを「無」とよべば、人間は実在を求めて、自分が無に永遠に回帰するほかないと知る。つまりニーチェの「永劫回帰」である。それが死という無にかかわるものとしての人間にとっての実在の姿なのだ。」[1]

哲学史における意義

ニーチェは永劫回帰を直感的、文学的に語っているために、その体系的な意味合いは不明瞭である。

ただ、宗教的な意味合いにおいては、永劫回帰はキリスト教的な来世や東洋的な前世の否定であり、哲学史的な意味合いにおいては、弁証法の否定と解釈できる。ニーチェは永劫回帰を説き、弁証法を否定することによって、近代化そのもの、社会はよりよくなってゆくものだという西洋的な進歩史観そのものを覆そうとしたのである。弁証法は、近代哲学の完成者といわれるヘーゲルの基本概念であり、これを否定することは文字通り、近代哲学を覆そうとする試みであった。ニーチェの永劫回帰の思想は、ポスト・モダンの近代批判に大きな影響を与えることになる。

すべての善悪、優劣は人間の主観的な思い込みに過ぎず、絶対的な善悪だけでなく、相対的な善悪も否定する、価値相対主義の極限という点では、ブッダ諸行無常諸法無我、荘子の万物斉同論に近い。絶対正義を語るキリスト教の強い西洋思想というよりも、東洋思想によく見られる発想である。が、仏教については諦観だとしてニーチェは否認しているので、永劫回帰はもっと能動的である。すべてのものは平等に無価値であり、終わりも始まりもない永劫回帰という究極のニヒリズムから、運命愛にいたり、無から新価値を創造、確立する強い意志を持った者をニーチェは超人と呼んでいる。しがらみも伝統も秩序もまったくの無であるということは、そこからあらゆる新価値、新秩序が構成可能だということである。

永劫回帰批判

しかし、『歴史の終わり』を書いたフランシス・フクヤマらに批判されているように、蓄積している知識や歴史が、近代化という不可逆な方向性を持っているのは社会科学的な事実であり、永劫回帰の思想は人類史的なスタンスから見れば誤りである。歴史は繰り返しているようで、弁証法的に発展しているのである。

また、自然科学的観点に立てば、1.世界はエントロピー増大の法則により常に拡散・多様化していくので類似の状況が再現されてもまったく同じ状況が再現されることはないという熱力学的見解や、2.有限の系に無限の時間を与えても繰り返しが起こるとは限らないことを発見したカオス理論、あるいは、3.本質的に不確定性を内包する量子論など、特に物理学によって永劫回帰を否定することが可能である[注釈 1]

また、ニーチェの能動的ニヒリズムは、ナチスヴェルサイユ体制打破という政治的目的に利用され、結果的にヨーロッパに破滅的な戦災を与えた。戦後、新左翼の若者たちの間でも流行し、彼らの刹那的で、盲動的な暴力行為を煽った。絶対的な善悪だけでなく、相対的な善悪すら存在しないと言うことは、あらゆる蛮行や凶行もすべて許されてしまうと言う危険思想に容易に直結する。その政治的に利用されやすい危険性と反省から、哲学者の永井均はその敗北の完璧さにおける思想的な意義を賛美しつつも、「ニーチェは思想家としては敗北した。マルクスには復活の可能性があるが、もはやニーチェにはない」と指摘している[2]。フランシス・フクヤマも、「ユダヤ的対等願望(奴隷道徳)は、ゲルマン的優越願望(貴族道徳)に勝利した」[注釈 2]と指摘し、弁証法的に発展する歴史には目的や終わりがあるとして、歴史の終わりを説いた。ブッダは「犀の角のようにただ独り歩め」と説き、ニヒリズムの政治化を戒めている。

永劫回帰は科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、あくまでも実存主義の構えの柱の一つであり、個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。ニーチェは、個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び、個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。これについて、永井均は永劫回帰は思想と言うよりも、ある日突然ニーチェを襲った体験である点を強調している[3]

永井均はニーチェ哲学とは徹底した「問い」であると指摘している。確かにニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。民主主義は価値相対主義を説くが、すべての価値を相対化し続けたら、絶対的な善悪だけでなく相対的善悪も否定されてしまい、究極的には善悪すべてが無意味化するのではないのか? 民主主義は国民の平等を説くが、すべての国民に平等に価値があるということは、すべての国民には平等に価値がないと言い換えられるのではないのか? キリスト教は普遍愛を説くが、すべてを平等に愛すると言うことは、何も愛していないというニヒリズムなのではないのか? フランシス・フクヤマはニーチェの近代批判は本質的で根源的であり、論理的に反駁するのが困難であることを認めている。永劫回帰の能動的ニヒリズムから貴族道徳の復活を説くニーチェ思想は、現代人の視点からしたら危険思想以外のなにものでもないので、多数派の支持を受けることはなく、もはや政治思想として復活することはありえない。その点においてニーチェは思想家としては間違いなく完敗した。しかし、感覚的に拒否できても、論理的に反駁することが困難である点がニーチェ哲学の特徴のひとつである。

脚注

注釈

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出典

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参考文献

  • フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」三笠書房
  • テンプレート:Cite book
  • ブッダ「ブッダのことば―スッタニパータ」中村 元 (翻訳)岩波文庫

外部リンク

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