聖槍

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ファイル:Fra Angelico 027.jpg
キリストの脇腹を槍で刺すロンギヌス。15世紀のフレスコ画

聖槍(せいそう、テンプレート:Lang-fr-shortテンプレート:Lang-de-shortテンプレート:Lang-en-short)は、磔刑に処せられた十字架上のイエス・キリストを確認するため、わき腹を刺したとされるである。

イエスの血に触れたものとして尊重されている聖遺物のひとつ。新約聖書の「ヨハネによる福音書」に記述されている(19章34節)。ヨハネ伝の作者は、仮現説論者に対し、この箇所で、イエスが一度死んだことを強調しているとも考えられる。またキリスト受難の象徴でもある。槍を刺したローマ兵の名をとって、「ロンギヌスの槍」(仏:lance de Longin, 独:Longinuslanze, 英:Lance of Longinus)とも呼ばれる。

聖遺物崇拝が高まった時代にいくつかの「聖槍」が発見され、現在も複数が保存されている。

槍の使用者について

イエスの死を確認するために槍を刺したローマ兵は、伝統的にラテン語ロンギヌス(Longinus)と呼ばれている。この名は、ニコデモ福音書(ピラト行伝)にすでに見られる。Longinusは純粋なラテン姓であるが、一方、この兵士に当てられたギリシャ語姓は Loginos、Longinos、Logchinos などとされ、ギリシャ語の槍を意味する語 logchē または lonchē(ラテン語の lancea)とテンプレート:独自研究範囲。ロンギヌスについては後世の創作であるが、実際にイエスに槍を刺した人物がいたかどうかについては定かではない。

彼は白内障を患っていたが、槍を刺した際に滴ったイエスの血がその目に落ちると視力を取り戻した。それを契機として彼は洗礼を受け、後に聖者聖ロンギヌス)と言われるようになったという。

その他の槍の所有者

ローマ帝国にキリスト教を取り入れたコンスタンティヌス帝、西ヨーロッパを統一したカール大帝も聖槍を所有していたとされる[1]

伝説・説話に登場する聖槍

アーサー王伝説の聖槍

キリスト教説話としての性質の濃い、アーサー王伝説の聖杯探索のくだりにも聖槍は登場する。 聖杯城カーボネックを訪れた円卓の騎士らの前に聖杯とともに現れ、穂先から血を滴らせた白い槍という姿で描写される。名前はロンゴミアントと言われている。

歴史上に現れた聖槍

ローマの聖槍

イエスの処刑から600年後、イェルサレムはペルシャ軍に占領された[1]。 この時、この聖槍は2つに分裂した。何が原因かは不明だが、槍の先端部が欠けたのである。先端部は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルイスタンブル)に運ばれ、宝石で飾り立てられた十字架の中心部に埋め込まれた。そして、当時キリスト教の教会だったアヤソフィア大聖堂に収められ、80年後には本体も届いた。その後しばらくはここに落ち着いた。

さらに600年後、フランス国王ルイ9世が先端部のみを買い取った。神との繋がりを示す聖遺物を所有する事は名誉な事であり、箔が付くと考えたのである。 槍の先端はパリに保管されるが、フランス革命により行方が分からなくなる。 一方、槍の本体は15世紀にイスラム勢力によってコンスタンティノープルが陥落した時もそこに留まった。聖槍の所在地はパリとコンスタンティノープルに分かれた。

1492年、オスマン帝国のスルタンバヤズィト2世は、かつて聖墳墓教会に存在したものであるという聖槍を教皇インノケンティウス8世に贈った。スルタンの座を狙う弟をイタリアに幽閉してもらうための交換条件だった。この聖槍はサン・ピエトロ大聖堂に保管されている。公開はされていない。

公開されていないものの、それを描いた写本を見る限り、この槍はローマの物かもしれないとされている[2]

アンティオキアの聖槍

第一回十字軍アンティオキア攻囲戦で苦戦しているとき、トゥールーズ伯レイモン麾下のペトルス・バルトロメオなるものが、聖アンデレのお告げにより聖槍を発見したと主張した。十字軍将兵の士気は高まり、勝利を得たが、槍の真贋を疑うものも多かったため、自ら神明裁判を買って出た。ペトルス・バルトロメオは槍をたずさえ火に飛び込んだが火傷が酷く、数日後に死亡した。この聖槍はその後行方不明となった。

神聖ローマ皇帝の聖槍

神聖ローマ皇帝レガリアであるテンプレート:仮リンクのひとつである聖槍は、オットー1世の時代から伝わるとされている。長らくニュルンベルクで保管されていたが、ナポレオンの侵攻以降はウィーンで保管されている。アンシュルス後にはナチスによってニュルンベルクに戻されたが、戦後にはウィーンに戻っている。

この槍は人類の運命を確実に左右してきた槍である[1]

Metallurgist and AuthorのRobert Featherによる詳しい研究の結果、槍の大部分は鉄製と判明した。1970年の付着物除去作業が行われていた事により、付着物はなんら検出されなかった。

外側を覆う金の鞘には「神の釘、神の槍」と書かれている。これは金の鞘の下に十字架が描かれた釘が埋め込まれている事とも一致する。 さらに、クリーニング時に分解された写真によると、黄金の鞘の下にもう一層の銀の鞘がある事が見て取れた。そのうちの1枚にはラテン語で「聖モーリスの槍」と書かれていた。 銀の鞘の他の部位には「ローマ皇帝ハインリヒ3世が、聖なる釘と聖モーリスの槍を補強するためにこの銀の鞘を造らせた」と同じくラテン語で書かれていた。

記録でわかる限り、この槍はエジプトでローマ軍の隊長であるモーリスの物だったのである。

モーリスも彼の部隊も全員がキリスト教徒だった。286年、皇帝マクシミアヌスの命により、彼は槍を携えてエジプトからヨーロッパに遠征した。ガリア(現在のフランス周辺)のスイスのレマン湖周辺で起きた暴動を鎮圧するためだった。しかし、彼らが到着した時には反乱は鎮圧されていた。モーリスは殺された反乱軍がキリスト教徒だったと知り、凍りついた。さらに皇帝はキリスト教徒を生贄としてローマの神々に捧げるよう命じた。モーリスは皇帝に願い出て、彼の部隊が処刑に関わる事を拒否した。これに激怒した皇帝はモーリスとその部隊の6000人全員を処刑するように命じ、実行された。 死を前にしても揺らぐ事のないモーリスの信仰心は中世の騎士たちの模範となり、彼は騎士や戦士の守護聖人である聖モーリスとなった。

聖モーリスの処刑の後、槍はコンスタンティヌス大帝のものとなった。当時ローマ帝国は政治的にも宗教的にも西と東で真っ二つに分裂していた。 コンスタンティヌス大帝は帝国の覇権をかけた戦いの直前、輝く十字架と「この印の下、汝は勝利するであろう」という文字を夢に見た。これに心動かされたコンスタンティヌスは自分の兵士たちの盾に、キリストを意味する頭文字を描かせた。さらに、戦いには聖槍を持って臨み、勝利を収めた。そしてキリスト教に傾倒したのである。彼はキリスト教徒は他人を処刑できないと信じていたため、洗礼を受けるのを先延ばしにし続けた。 そして、帝国をまとめるには新たな宗教が必要と考えた彼はキリスト教を公認した。

476年、西ローマ帝国が滅亡。その200年後、槍はカール大帝の手に渡った。彼は聖槍を常に持ち歩き、西ヨーロッパを統一した後、教皇から皇帝に任命された。この後、聖槍の行方は分からなくなる。

その後、銀の鞘の上に黄金の鞘をつけたのはカール4世だと考えられる。彼は時期神聖ローマ皇帝を狙っていた。そして、カール4世の子孫が生活に困り、ニュルンベルクの町議会に売り渡してしまった[1]

アルメニアの聖槍

アルメニアエチミアジン大聖堂に保存されている聖槍は、現在のゲガルド修道院がある場所で発見されたと言われている。

逸話によると、聖槍を持ち込んだのは12使徒の1人タダイである[1]。 この地に流れてきたタダイは聖槍を持っていたために、地元の異教徒に恐れられ首を刎ねられた。 タダイは死ぬ前に数人の異教徒をキリスト教に改宗させており、キリスト教徒たちはタダイの死後、聖槍を秘密の洞窟に隠した。現在のゲガルド修道院がある場所である。 聖槍はそこに200年間眠り続けた。

次にこの聖槍を手にしたのはアルメニアで福音書の教えを広めようとしたグレゴリウスである。 しかし、グレゴリウスは異教の権力者に捕らえられ、ホルヴィラップ修道院の地下牢に13年間閉じ込められてしまう。 グレゴリウスは奇跡的に生き延び、聖槍を取り戻すと異教の神々を倒した。 そして、王と民衆をキリスト教に改宗させ、301年にアルメニアは世界初のキリスト教国家となった。

しかしこの槍はローマ時代の槍ではなかった[2]。アルメニア教会は槍がローマのものでは無い事は認めており、イエスの時代のユダヤ人兵士が使っていたものとしている。

オカルティズムにおける聖槍

「所有するものに世界を制する力を与える」との伝承があり、アドルフ・ヒトラーの野望は、彼がウィーンホーフブルク王宮で聖槍の霊感を受けた時より始まるといった俗説もある。また、ナチス・ドイツ時代に聖槍などの帝国宝物をニュルンベルクへ移管したのは、神聖ローマ帝国の後継者であることを示すためという見解もある(大ゲルマン帝国参照)。

参考文献

  • 純丘曜彰『死体は血を流さない:聖堂騎士団vs救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』、三交社、2009年

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 「キリスト聖槍の伝説」ナショナルジオグラフィックチャンネル(THE PETRIE MUSEUM OF EGYPTIAN ARCHAEOLOGY / UNIVERSITY COLLEGE LONDON / THE INSTITUTE OF ARCHAEOLOGY / UNIVERSITY COLLEGE LONDON BAVARIAN DEPARTMENT)[1]
  2. 2.0 2.1 UniversityCollegeLondon MarkHassallテンプレート:出典無効

関連項目