武田信長
武田 信長(たけだ のぶなが、生年不詳[1] - 文明9年(1477年)?)は、室町時代中期の武将。甲斐における国人領主。甲斐守護武田信満の次男で武田信重の弟[2]、武田信元の甥に当たる。母は小山田氏の娘か[3]。官位は右馬助。悪八郎、豊三と称したという。子に伊豆千代丸、上総介(道信か、道卜か)、清嗣、某、宮内少輔、里見義実室、築田持助室がいる。上総武田氏の祖にあたる。
生涯
甲斐では南北朝時代に守護武田氏による支配が行われていたが、応永23年(1416年)に発生した上杉禅秀の乱において守護武田信満が上杉禅秀方に荷担し追討を受けて十賊山において敗死すると、甲斐は無主状態となり、逸見氏、穴山氏、跡部氏ら有力国人勢力の台頭を招き国内は争乱状態に陥っていた[4]。
上杉禅秀の乱に際して信満の弟信元が守護に任じられるが、関東御分国のひとつである甲斐は鎌倉公方足利持氏の影響下にあり、甲斐国人の逸見有直は甲斐守護着任を志向し、新守護の入国を妨害していた。信長は父信満に従い禅秀の乱にも参加しており、乱後には国内で逸見氏らに対抗したという[5]。禅秀の乱後の甲斐国内において、逸見氏の勢力基盤は国中の甲府盆地北縁から西郡地域に想定されているが、信長は郡内に勢力を持つ加藤氏と協調し逸見氏に対抗していたと考えられている。
信長は鎌倉府から三次にわたり征討を受けているが、応永28年(1421年)には吉見伊予守が派遣され信長の「反逆」を問い詰め、信長の無心を確認すると鎌倉へ帰還している[6]。また、応永24年(1417年)頃には幕府の意向を受け信元支援のため信濃守護小笠原氏が甲斐守護代に任じられた跡部氏を派遣しており、幕府の承認を得ていない信長-伊豆千代丸政権は跡部氏とも対決傾向にあったと考えられている。
応永30年(1423年)には信長の兄信重が守護に任命され、信重入国に際して逸見氏、穴山氏らの国人勢力はこれを妨害しているが、信長もこの抗争に関わっているものと考えられている[7]。
応永32年(1425年)には上杉房前が派遣され[8]、翌応永33年(1426年)には一色持家率いる軍勢が甲斐へ派遣されており、信長は郡内猿橋(大月市猿橋)において防戦するが、持氏方には武蔵国の白旗一揆が荷担し敗退し、田原(都留市)においても敗北し、降伏し鎌倉府へ出府したという[9]。
永享5年(1433年)には鎌倉を出奔し甲斐へ戻り、同年4月29日には荒川において、日一揆を味方に輪宝一揆を味方にした跡部氏と戦うが敗退し[10]、駿河へ逃れている。
その後、信長は6代将軍足利義教に仕えて結城合戦で武功を挙げ相模西部に所領を得て、嘉吉2年(1442年)頃には同国の守護に補任されたとする説がある[11]。義教が暗殺された(嘉吉の乱)後、守護職を上杉氏に奪われた[12]とみられ、一方甲斐本国でも室町幕府と跡部氏の支援によって兄・信重が守護として復権していたため、古河公方足利成氏に仕えた。康正2年(1456年)頃に成氏の命を受けて、当時上杉氏が守護を務めていた上総に兵を進めて同国を接収して、長禄2年(1458年)頃に庁南城、真里谷城を築いたといわれる。そして文明9年(1477年)頃、上総にて死去したと言われている。享年は80前後(一説には77)と言われている。
信長の子孫は成氏に仕えて上総国にて勢力を拡大し、戦国時代には真里谷氏として関東において戦国大名化する。
脚注
- ↑ 信長の生年は不詳であるが、義兄弟にあたる上杉氏憲(禅秀)の嫡男憲方が応永6年(1399年)に生まれていることや、応永28年(1421年)頃には信長の嫡男伊豆千代丸が元服前の年齢であることから、明徳元年(1390年)頃の出生であった可能性が考えられている(黒田(2011)、p.7)。
- ↑ 『甲斐国志』巻九五。『浅羽本武田系図』では信長を長男とし、惣領であったとしている。この点について、『国志』雄山閣本肯定者の佐藤八郎は庶長子であったとする解釈を示している。)
- ↑ 『鎌倉大草紙』『武田源氏一統系図』に拠る。
- ↑ 上杉禅秀の乱は、応永23年に前関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏を襲撃した事件で、禅秀の乱から結城合戦に至る一連の経緯については、甲斐をはじめとする東国において鎌倉府を頂点とする惣領制を解体させ国人層の台頭を招いた事件として重視されている(永原慶二「東国における惣領制の解体過程」『日本封建制成立過程の研究』(岩波書店、1961)。禅秀の乱は甲斐における有力国人層の台頭から、守護武田氏による国人被官化、戦国期に武田氏の戦国大名化する至るきっかけとなった事件として重要視されている。禅秀の乱と甲斐情勢については、高島緑雄「十五・六世紀における甲斐国人の動向」『地方史研究』(46、1960)、磯貝正義『武田信重』(武田信重公史蹟保存会、1974)、秋山敬「上杉禅秀の乱後の甲斐国情勢」『戦国大名武田氏』(名著出版、1991のち秋山『甲斐武田氏と国人』(2003)所載)など。
- ↑ 帰国時期は不明だが、『鎌倉大草紙』では逸見氏と武田氏の抗争を応永24年(1417年)からとしている。
- ↑ 応永28年の信長征討については、背景に守護信元の後継問題が考えられている。この頃幕府においては信元の後継として武田信重の守護任命が問題となっているため信元は同時期に死去していると考えられているが、一方で実施彦次郎が早世している信元は信長の子伊豆千代丸を養子とし、伊豆千代丸への継承を志向していたという。(『鎌倉大草紙』では信元は信長への後継を志向していたが、禅秀の乱に荷担していた信長への後継が幕府に許されず、伊豆千代丸への後嗣を定めたとしている)。秋山敬は応永28年の信長征討に関して、信元の守護補任、信元の後継問題に関与できなかった鎌倉府が実質的後継者の立場にあった信長を懐柔し、甲斐への影響力を保持しようとしていたものとしている。
- ↑ 信重の帰国を妨害する甲斐国人の動向については『満済准后日記』応永32年閏6月11日条に拠る。信重帰国に関する信長の立場について、信長は兄信重の帰国を実現させるために奮闘したとする解釈があるが(広瀬広一『武田信玄伝』紙硯社、1944)、一方で磯貝正義は『満済准后日記』に見られる信重の帰国を妨害した「穴山氏」を一時穴山姓を称していた信元の後嗣である伊豆千代丸と後見的立場にある信長を指している可能性を示している(磯貝 1974)。また、秋山敬はさらに後述の鎌倉出府まで含めた一連の経緯について、信長は信元の後継で鎌倉公方の支持を得た自らの政権(信長-伊豆千代丸政権)を保持するためのものであるとしている。
- ↑ この頃には鎌倉公方と幕府の間で意向が対立していた常陸・甲斐における守護の問題について交渉が行われており、持氏は守護信重の帰国が実現しない甲斐国について、一族のものを鎌倉へ出府させることを提案している。秋山はこうした幕府と鎌倉府の関係を念頭に、応永32年の信長征討は信重帰国を実現する名目で出兵し、信長を懐柔することで信重帰国後も甲斐への影響力を確保しようとしていた政策意図であるとしている。
- ↑ 『鎌倉大草紙』に拠る。秋山は上記の観点から応永33年の征討も信長を懐柔する政略的意図のものであるとし、また一連の合戦が郡内に終止していることから信長の勢力基盤が郡内にあったことを指摘している。
- ↑ 『一蓮寺過去帳』にはこの合戦における戦死者が記されており、信長方の日一揆の構成員には在地支配を担う中小国人層の名が見られる秋山「『一蓮寺過去帳』合戦記事にみる武田氏と国人」『甲斐武田氏と国人』。
- ↑ 永享の乱後の嘉吉2年5月28日付で関東管領の代行である上杉憲方から武田信長に充てた「醍醐寺地蔵院領文書案」と呼ばれる文書が遺されており、文中では武田信長に対して相模三浦郡内の地蔵院領の成敗の実施が命じられている。佐藤博信・杉山一弥はこれを関東管領から相模国守護職に対して守護の職務である成敗を命じた文書と解釈し、嘉吉2年段階の相模守護を武田信長とする。(佐藤博信「室町時代の相模守護」『中世東国の支配構造』(思文閣出版、1989)・杉山一弥「室町期上総武田氏の興隆の基底」『武田信長』〈シリーズ中世関東武士の研究第2巻〉戒光祥出版、2010、原論文は2002)
- ↑ 嘉吉3年に入ると、上杉清方が相模守護の職務を行っており杉山(2002/2010)は、武田氏が甲斐・相模の守護を兼ねることに反発した上杉氏の巻き返しによって信長が守護職を更迭されたとみる。一方、黒田基樹は武田信長の守護在任が異常に短すぎる点を問題視して守護補任説を否定する(黒田基樹「武田信長論」『武田信長』〈シリーズ中世関東武士の研究第2巻〉戒光祥出版、2010、原論文は2002))。
参考文献
- 黒田基樹「武田信長論」『シリーズ・中世関東武士の研究 第二巻 武田信長』戎光祥出版、2011年