青木重正
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青木 重正(あおき しげまさ、寛永2年(1625年) - 元禄6年8月15日(1693年9月14日))は、摂津麻田藩の第3代藩主。
駿府藩主・徳川忠長の家臣・朝倉宣正の世子朝倉宣親の長男。母は酒井忠勝の娘。正室は青木重兼の娘・マン(慶雲院殿正寿元信大居士)。子は青木直正(長男、青木直澄養子)、青木重矩(次男)、女子、朝倉景孝(三男、朝倉景行養子)、加藤明教(四男、加藤喜隆養子)、青木源三郎。官位は従五位下、甲斐守。諱は重成(しげなり)とも言う。幼名は内膳、民部。
生涯
先代藩主の青木重兼に嗣子がなかったため、はじめ酒井忠勝の三男・可一を養嗣子としていたが、寛永21年(1644年)6月に早世したため、その縁戚に当たる重成が養嗣子となり、寛文12年(1672年)12月9日、重兼の隠居により後を継いだ。大番頭や側衆を務めて、徳川綱吉から厚い信任を受けた。元禄6年(1693年)8月15日に69歳で亡くなる直前、綱吉から侍医の森雲仙らを派遣されて診療されていることが、それを示していると言える。跡を次男の重矩が継いだ。法名は陽徳院殿徹山道剛大居士。