アントニー・ヒューイッシュ
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アントニー・ヒューイッシュ(Antony Hewish, 1924年5月11日 - )はイギリスの電波天文学者。パルサーを発見した功績によって1974年に同僚のマーティン・ライルとともにノーベル物理学賞を受賞した。1969年には英国王立天文学会のエディントン・メダルも受賞している。
ヒューイッシュはイングランド南西部のコーンウォール州フォイに生まれた。
ケンブリッジ大学の学部生時代に兵役のためにロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント (RAE) に配属され、学業を一時中断した。後にレーダーの空軍への応用を研究していた通信研究所 (Telecommunications Research Establishment) に移り、そこでマーティン・ライルとともに働いた。1946年にケンブリッジに戻ると、ヒューイッシュは卒業単位を取得して直ちにキャベンディッシュ研究所のライルの研究チームに加わり、1952年に博士号を取得した。ヒューイッシュは電波源から放射された電波がプラズマに影響を与えることで生じるシンチレーションを観測し活用する手法を理論と実用の両面で進歩させた。
これをきっかけにして彼は、星間シンチレーションを高い時間分解能で電波サーベイ観測するために、ケンブリッジのマラード電波天文台 (MRAO) に惑星間シンチレーションアレイ (Interplanetary Scintillation Array) と呼ばれる大規模な電波望遠鏡アレイを建設する提案を行い、そのための補助金を得た。この計画の途中で彼の大学院生の一人だったジョスリン・ベルが、後に最初のパルサーと判明する電波源を初めて発見した。
パルサーの発見を報告した論文は5人の共著で、ヒューイッシュの名前が筆頭でベルが2番目だった。この業績に対するノーベル賞はライルとヒューイッシュが受賞し、ベルは共同受賞者とはならなかった。このことは議論を巻き起こし、特にヒューイッシュの同僚の天文学者フレッド・ホイルは強く非難した。しかし大部分の人々は、この賞はライルとヒューイッシュが電波天文学の分野全般にわたって成し遂げた業績、特にライルの開口合成についての仕事とヒューイッシュのパルサーに関する仕事に対して贈られたものであるということを認識している。
ヒューイッシュは1971年から1989年までキャベンディッシュ研究所の電波天文学の教授を務め、1982年から1988年まで MRAO の所長に就任した。1968年には王立協会の会員となり、1974年にマーティン・ライルとともにノーベル物理学賞を受賞した。