代々木上原
代々木上原(よよぎうえはら)は、東京都渋谷区の西部にある一地区である。
現在の地名でいうと、概ね上原一丁目〜三丁目の他に、元代々木町・西原一丁目〜三丁目・大山町の一部を含めた一帯を指す。歴史的には旧代々木村に所属し、その中央部から西部にかけての地域である。
現町名の上原の詳細については上原 (渋谷区)の項を参照。
概要
地形は東西方向の谷の両側を台地が挟む形で、東側に下る傾向が見られる。北に幡ヶ谷、西に世田谷区北沢、南に目黒区駒場と接するが、これらとは台地上で接し、低地との間には崖状の地形が見られ、小田急線の車窓からも見える。
同線代々木上原駅のやや東方の南側に登る斜面に沿って近隣商業地や日本音楽著作権協会本部などが広がり、周辺は住宅地が多くを占める。この住宅地は、元々の高級住宅街(下記)、外国人向けの高級賃貸住宅も含む各種のものが混在気味に分布している。
鉄道の駅は、上記代々木上原駅が設置され、東に代々木八幡駅、北に幡ヶ谷駅、西に東北沢駅(かつては貨物駅設備が上原に含まれていた)が近接している。
幹線道路は、井ノ頭通りが東西に通り、北に甲州街道、南に補助54号線に接する。
歴史
1212年に代々木村の鎮守である「代々木八幡宮」が現在の元代々木と西原の間あたりに創建される。かつては初台・元代々木・西原周辺の低地は宇陀野(うだの)と呼ばれ、そこから流れる川という意味で宇田川と命名された(下流で渋谷川と合流する手前の町名が現在の渋谷区宇田川町)。戦国時代に太田道灌が現在の代々木八幡宮の場所に砦を作る。1671年(寛文11年)に代々木八幡宮が現在の場所に移る。元々、東京府(武蔵国)豊嶋郡代々木村の一部であり、北に接する幡ヶ谷村との合併(代々木上原町)、豊多摩郡、東京市、渋谷区への編入等を経て現在の形となった。
江戸期から狼谷(「大上谷」の転訛、現在の西原二丁目から大山町にかけての谷で、宇田川の水源)に荼毘所が出来、現在の代々幡斎場に至る。1927年(昭和2年)の小田急小田原線開通・代々幡上原駅設置(詳細は代々木上原駅参照)までは人里少ない地域であった。なお、代々幡上原駅設置当時、代々木村と幡ヶ谷村の合併により代々幡町に属していた。
その後、東京市編入の頃、西原から大山町あたりに「徳川山」という東京都内有数の高級住宅街が昭和初期に分譲される。戦前、森永製菓創業者の私邸「森永ガーデン」というものがあり、戦後はGHQの接収をへて医療少年院となり、昭和50年代にその跡地が東京国際研修センターに生まれ変わる。
また、井ノ頭通り沿い(大山町)にはイスラム教のモスク「東京ジャーミイ」がある。ロシア革命で郷里を追われたトルコ人が満州経由で東京に移り住み、そのトルコ人のための宗教・教育施設として1938年(昭和13年)に作られた「東京回教学院」がその元である。なお、地元では「フイフイ教」といわれる。
代々木上原駅の移転・東京メトロ千代田線乗り入れの影響は、住宅地の人気上昇という側面の方が目立ち、商店街(近隣商業地)の中心は、今も移転前の駅跡に近い。
河合塾は、関東進出に際して上原三丁目に「駒場校」を設置している。
関連項目