フランス革命関連人物一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年1月10日 (金) 22:30時点におけるMagyon (トーク)による版 (ダントン派(ジャコバン寛容派))
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

フランス革命に関連する人物の一覧

以下、革命前後において活躍した主要な人物を政治的立場などを参考にして分類してある。

フランス王族

名前 生没年 異名 主な活躍
ルイ16世 1754年 - 1793年 - 革命期のフランス国王(在位1774年 - 1792年)
ヴァレンヌ事件以降、急速に擁護派を失う
プロヴァンス伯爵 1755年 - 1824年 - 王弟
後の国王ルイ18世
アルトワ伯爵 1757年 - 1836年 - 王弟
後の国王シャルル10世
革命期における王党派の首領
マリー・アントワネット 1755年 - 1793年 オーストリア女 ルイ16世の王妃
贅沢な宮廷生活を送り、フランス財政悪化の一因を作った
エリザベート王女 1764年 - 1794年 - 王妹
国王一家と終始行動を共にし、刑死した

王党派

王族関係者

名前 生没年 異名 主な活躍
デュ・バリー夫人 1743年 - 1793年 傾国の美女 娼婦出身のルイ15世公妾
宮廷ではマリー・アントワネットと対立
フェルセン伯爵 1755年 - 1810年 - スウェーデン貴族
王妃マリー・アントワネットの愛人
ヴァレンヌ事件に協力
ポリニャック伯夫人 1749年 - 1793年 - マリー・アントワネットの寵臣
ランバル公妃 1749年 - 1792年 - マリー・アントワネットの女官長
一時、ポリニャック伯夫人と対立
最後まで王妃を見捨てなかった
ルブラン夫人 1755年 - 1842年 - 当時の貴族の間で人気だった女流画家

立憲君主派

フイヤン派

名前 生没年 異名 主な活躍
オノーレ・ミラボー 1749年 - 1791年 疱瘡の虎
革命の獅子
貴族でありながら三部会で第3身分議員に属す
議会と国王とのパイプ役を務める
ジルベール・デュ・モティエ・ド・ラファイエット 1757年 - 1834年 両世界の英雄 アメリカ独立戦争に義勇兵として参戦
第3身分に協力し、革命後、国民軍司令官
フランス人権宣言の起草に着手
シャン・ド・マルスの虐殺に関って失脚し亡命、七月革命で再び活躍
ジャン・シルヴァン・バイイ 1736年 - 1793年 - 国民議会初代議長
シャン・ド・マルスの虐殺に関り失脚
アベ・シエイエス
(恐怖政治期は平原派)
1748年 - 1843年 革命のモグラ パンフレット『第三身分とは何か』を著す
憲法制定国民議会議長
ブリュメールのクーデタナポレオンに協力

三頭派

名前 生没年 異名 主な活躍
アントワーヌ・バルナーヴ 1761年 - 1793年 - 屋根瓦の日に活躍した雄弁家
著書『フランス革命序説』は同時代人の革命論の中では最高とされる
アドリアン・デュポール 1759年 - 1798年 - ヴァレンヌ事件後、革命と王政との融合試み、国王の相談役も務める
アレクサンドル・ド・ラメット 1760年 - 1829年 - アメリカ独立戦争に義勇兵として参戦したラメット兄弟の末弟
バルナーヴ・デュポールと共に三頭派結成
革命終結後はナポレオンの忠実な臣下となり、王政復古後も議員となった
シャルル・ド・ラメット 1757年 - 1832年 - アメリカ独立戦争に義勇兵として参戦したラメット兄弟の5男
立法議会2代目議長
七月革命では革命派に協力
テオドール・ド・ラメット 1756年 - 1854年 - アメリカ独立戦争に義勇兵として参戦したラメット兄弟の4男
オーストリアへの宣戦布告に反対投票を投じる

オルレアン派

名前 生没年 異名 主な活躍
ルイ・フィリップ2世 1747年 - 1793年 フィリップ・エガリテ
平等公
オルレアン公ブルボン家傍系の貴族
革命擁護派で、自宅の庭パレ・ロワイヤルを革命家や民衆に解放
シャルル・デュムーリエ 1739年 - 1823年 - ジロンド派内閣で陸軍大臣・外務大臣
ヴァルミーの戦いで勝利をおさめる
その後革命政府を裏切ってオーストリアに亡命、衝撃を与えた

ヴァンデの反乱における王党派指導者

名前 生没年 異名 主な活躍
ジャック・カトリノー 1759年 - 1793年 アンジェーの聖者 商人出身
カトリック王党軍初代総司令官
ルイ・ド・エルベ 1752年 - 1794年 - 旧体制時代からの有名な戦略家
カトリック王党軍第2代総司令官
アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン 1772年 - 1794年 ヴァンデのアキレス 8月10日事件で国王一家を守護
カトリック王党軍第3代総司令官
フランソワ・ド・シャレット 1763年 - 1796年 - 元海軍将校
8月10日事件で国王一家を守護
カトリック王党軍から離反、下ヴァンデ軍を創設
ルイ・ド・レスキュール 1766年 - 1793年 - カトリック王党軍司令官
ラ・ロシュジャクランの従兄
ベルニエ司祭 1762年 - 1806年 ヴァンデの使徒 行政機関・最高評議会代表および従軍司祭長
ナポレオン政権下で、コンコルダートの成立に尽力

共和派

ジロンド派

名前 生没年 異名 主な活躍
ジャック・ピエール・ブリッソー 1754年 - 1793年 - ジロンド派主導者
革命以前、過激な文章でバスティーユに投獄される
ピエール・ヴェルニヨ 1753年 - 1793年 ジロンドの鷲 ジロンド派の雄弁家
8月10日事件の際に議長を務めていた
ロラン夫人 1754年 - 1793年 ジロンド派の女王 自身のサロンに多くの名士が集結
夫の思想・行動にも大きな影響力を持っていた
ジャン=マリ・ド・ロラン 1734年 - 1793年 - ロラン夫人の夫
内務大臣
フランソワ・ビュゾー 1760年 - 1794年 - ロラン夫人の愛人
独裁に反対し、ジャコバン派と精力的に闘争
マクシマン・イスナール 1751年 - 1830年 - フランス革命戦争の開戦を強く主張
国民公会の議長も務める
シャルル・バルバルー 1767年 - 1794年 - 8月10日事件で民衆を煽動
対ジャコバン派抗争の先鋒
シャルロット・コルデーと恋仲(?)
ジェローム・ド・ペティヨン 1756年 - 1794年 人民の父 ジャコバンクラブ議長を務め、ロベスピエールを凌ぐ人気を得る
パリ市長に就任
マルグリット=エリー・ガデ 1755年 - 1794年 - 内務大臣
コンドルセ 1743年 - 1794年 - 公共教育委員会議長
数学者で、投票の逆理についての考察で知られる
トマス・ペイン 1737年 - 1809年 - アメリカ独立戦争直前、『コモン・センス』を著す
英国籍のまま国民公会議員に
革命擁護論の『人間の権利』は英本国で大ベストセラーに
シャルロット・コルデー 1768年 - 1793年 暗殺の天使 マラー暗殺の犯人
その美貌で革命期のパリを騒がせた

ジャコバン派(山岳派・モンタギュー派)

ロベスピエール派(ジャコバン中道派)

名前 生没年 異名 主な活躍
マクシミリアン・ロベスピエール 1758年 - 1794年 清廉の士
革命の闘士
革命初期から共和派として活躍
ジャコバン派の指導者
テルミドールのクーデター後、処刑
ジャコバン三頭、独裁三頭の一人
オーギュスタン・ロベスピエール 1763年 - 1794年 - マクシミリアンの弟
ナポレオンの軍事的才能に目をつける
ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト 1767年 - 1794年 革命の大天使 国民公会最年少議員
ロベスピエールの側近
独裁三頭政治家の一人
ジョルジュ・クートン 1755年 - 1794年 ロベスピエール第2の魂 ロベスピエールの側近
独裁三頭政治家の一人
フィリップ=フランソワ=ジョゼフ・ル・バ 1762年 - 1794年 - ロベスピエールの側近
アンリエット・ル・バ - フィリップ=フランソワ=ジョゼフ・ル・バの妹
サン=ジュストの婚約者
マルク・アントワーヌ・ジュリアン 1775年 - 1848年 ロベスピエールの目 ジャコバン最年少党員
地方での反革命反乱の鎮圧に活躍
フランソワ・アンリオ 1759年 - 1794年 6月2日の勇士
ロベスピエールの地獄に落ちた魂
パリ市国民衛兵隊 総司令官
公会を包囲してジロンド派追放に協力
フーキエ・タンヴィル 1746年 - 1795年 - 革命裁判所検察官
カミーユ・デムーランの縁戚

ダントン派(ジャコバン寛容派)

名前 生没年 異名 主な活躍
ジョルジュ・ダントン 1759年 - 1794年 - ジャコバン三巨頭の一人
8月10日事件の際に民衆を煽動
外敵の侵入に際し、豪胆演説で国民を鼓舞
恐怖政治に寛容を求める
カミーユ・デムーラン 1760年 - 1794年 街頭検事 廃兵院襲撃を煽動したジャーナリスト
反革命派に対する寛容を主張
リュシル・デュプレシ 1770年 - 1794年 やさしのリュシル カミーユ・デムーランの妻
内助の功”の典型的女性
ルイ=マリ・スタニスラス・フレロン
(後にテルミドール派)
1754年 - 1802年 - ダントン派のジャーナリスト
派遣議員としてマルセイユトゥーロンに赴く
ダントン派の粛清から逃れ、テルミドールのクーデターを画策

エベール派(ジャコバン急進派)

名前 生没年 異名 主な活躍
ジャック・ルネ・エベール 1757年 - 1794年 デュシェーヌ親父 最下層貧民の代弁者
キリスト教廃止を推進
新聞『デュシェーヌ親父』を発行
ジャン=バティスト・クローツ 1755年 - 1794年 人類の代弁者 非キリスト教化の理論的指導者
理性の崇拝」を推進
アントワーヌ=フランソワ・モモロ 1765年 - 1794年 - 有名な「自由・平等・友愛」スローガンの発案者
エベール派煽動の民衆蜂起を主導

ジャコバン過激派

名前 生没年 異名 主な活躍
ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ 1756年 - 1819年 - ジャコバン最急進派の理論的指導者
派遣議員としてヴァンデの反乱を戦う
テルミドールのクーデタに参加
ジャン=マリー・コロー・デルボワ 1749年 - 1796年 - 反革命反乱鎮圧のためリヨンへ派遣され、大虐殺を行う
国民公会議長の座を利用し、テルミドールのクーデタに協力
ネオ・ジャコバン
名前 生没年 異名 主な活躍
フランソワ・ノエル・バブーフ 1760年 - 1797年 - バブーフの陰謀」首謀者
共産主義の先駆
フィリッポ・ブオナロッティ 1761年 - 1837年 - バブーフに協力し、後にバブーフの理論を宣伝
19世紀をまたいだ職業革命家となり、七月革命秘密結社カルボナリ
チャーティスト運動等、数々の運動に関る

その他

名前 生没年 異名 主な活躍
ジャン=ポール・マラー 1743年 - 1793年 人民の友 ジャコバン三巨頭の一人
新聞『人民の友』を発行
シャルロット・コルデーによって暗殺
ジョゼフ・フーシェ
(後にテルミドール派)
1759年 - 1820年 リヨンの霰弾乱殺者
サン・クルーの風見鶏
派遣議員として、リヨンの大虐殺を主導
テルミドールのクーデタを首謀し、ロベスピエールを打倒
秘密警察を組織し、総裁政府で警視総監
ナポレオン政権復古王政でも警務大臣
ジャン=ランベール・タリアン
(後にテルミドール派)
1762年 - 1820年 - 恋人を助けるため、テルミドールのクーデタに参加
ジャコバンクラブ・革命裁判所等を閉鎖
ルイ=ラザール・オッシュ 1768年 - 1797年 - 革命期の最も優秀な軍人
対オーストリア戦線、ヴァンデの反乱鎮圧で活躍
一時投獄され、そこでジョゼフィーヌと愛人関係に
ジャック=ルイ・ダヴィッド 1748年 - 1825年 - 革命期~ナポレオン時代にかけての画家
最高存在の祭典を演出
ナポレオン・ボナパルト 1769年 - 1821年 ヴァンデミエール将軍 後の皇帝ナポレオン1世
トゥーロン攻囲戦ヴァンデミエールの反乱鎮圧に活躍
一時、ロベスピエール派とみなされ投獄
ジャン=バティスト・ベルナドット 1763年 - 1844年 - 後のスウェーデン国王カール14世ヨハン
一時、ジャコバン派の頭目となる
ジャック・フランソワ・デュゴミエ 1738年 - 1794年 - 叩き上げの共和国軍人
トゥーロン攻囲戦でナポレオンの作戦を採用、高く評価
トゥーサン・ルーヴェルチュール 1743年 - 1803年 黒いジャコバン 本国の革命に乗じてハイチ革命を指導
ナポレオンが派遣した軍によって鎮圧され、獄死

平原派(沼沢派・テルミドール派)

名前 生没年 異名 主な活躍
ラザール・カルノー 1753年 - 1823年 勝利の組織者 フランス革命戦争に際し、軍制改革に着手
公安委員会にも参加
ナポレオンの百日天下の際、内務大臣
ピエール・ジョゼフ・カンボン 1756年 - 1820年 財政のロベスピエール 財政問題を担当し、アッシニア紙幣を乱発
テルミドールのクーデター直前にロベスピエールを論破
ポール・バラス 1755年 - 1829年 悪徳の士 テルミドールのクーデタの際、公会軍司令官
有力総裁として総裁政府に5年間君臨
ナポレオンのパトロン
テレーズ・カバリュス
(タリアン夫人)
1773年 - 1835年 テルミドールの聖母
第2のアントワネット
投獄されるも、恋人のタリアンをけしかけて存命
後に夫を見捨て、バラスの愛人に
豪華なサロンを開き、社交界に君臨
ベルトラン・ド・バレール 1755年 - 1841年 革命のカメレオン 92年、国民公会議長
日和見主義な態度で革命を生き残る
カンバセレス 1753年 - 1824年 - テルミドール反動後、司法大臣
第一統領ナポレオンの下、第二統領を務める

アンラージュ(過激派)

名前 生没年 異名 主な活躍
ジャック・ルー 1752年 - 1794年 赤い司祭
小さなマラー
過激派(アンラージェ)の首領格の聖職者
革命派僧侶として、ルイ16世を断頭台に案内
ジロンド派を攻撃、後にジャコバン派とも対立
ジャン・ヴァルレ 1764年 - 1832年 - 郵便局員
所有権の制限、財産の国有化、革命軍の創設などを要求
テオフィール・ルクレール 1771年 - ? - アンラージェ最年少指導者
マラー死後、『人民の友』2代目編集長
クレール・ラコンブ 1765年 - ? - 女優出身の過激派女性指導者
革命的共和主義者女性協会の創設メンバー

フェミニズム運動家

名前 生没年 異名 主な活躍
オランプ・ド・グージュ 1748年 - 1793年 - 女優出身のフェミニズム運動先駆者
『人権宣言』に対抗し『女性及び女性市民の権利宣言』を発表
テロワーニュ・ド・メリクール 1762年 - 1817年 自由のアマゾネス 娼婦出身の女性革命家
バスティーユ襲撃、ヴェルサイユ行進には男装して参加
アン=ポーリーヌ・レオン 1768年 - 18??年 - 革命的共和主義者女性協会を創設、初代代表者に
93年、テオフィール・ルクレールと結婚

その他

名前 生没年 異名 主な活躍
タレーラン=ペリゴール 1754年 - 1838年 - 自身も司教でありながら、反キリスト的な教会財産の国有化を推進
当時愛人だったスタール夫人の推薦で総裁政府の外務大臣に
外務大臣としてナポレオン政権を支えるも、その崩壊にも暗躍
ナポレオン戦争後のウィーン会議正統主義を唱え、フランスの国益を守る
マルキ・ド・サド
(サド侯爵)
1740年 - 1814年 - フランス革命直前までバスティーユ牢獄に収監
サディズムの語源として知られる、猟奇的小説家
アントワーヌ・ラヴォアジエ 1743年 - 1794年 - 化学者として、質量保存の法則の発見など業績多数
恐怖政治期、徴税吏であったことを理由に処刑
スタール夫人 1766年 - 1817年 - ネッケルの娘
批評家・小説家で、自身のサロンには多くの名士が集まる
独裁傾向を強めるナポレオンとしだいに対立
フェミニズムの先駆者でもある
スタール=ホルシュタイン
(スタール男爵)
1749年 - 1802年 - スタール夫人の夫
スウェーデンの駐仏大使
シャルル=アンリ・サンソン 1739年 - 1806年 - パリの死刑執行人、ギロチンの操作係
若い頃、デュ・バリー夫人と交際関係にあった
自身は王党派であったが、恐怖政治期に多くの人々の処刑に関る

革命初期の大臣達

名前 生没年 異名 主な活躍
ジャック・テュルゴー 1727年 - 1781年 - 重農主義経済学者で、ケネーの弟子
財務総監を務め、財政再建に取り組む
ジャック・ネッケル 1732年 - 1804年 - ジュネーブで生まれの銀行家、第三身分出身
財政再建のため、世論を味方につけるべく三部会の開催を画策
彼の罷免が、バスティーユ襲撃の原因のひとつとなる
カロンヌ 1734年 - 1802年 - 特権身分の免税廃止を目指し、支持を取り付けるため名士会を招集
革命期にはイギリスで亡命貴族を援助し、反革命運動を組織

在外君主・首相

名前 生没年 異名 主な活躍
レオポルト2世 1747年 - 1792年 - 神聖ローマ皇帝(在位:1790年 - 1792年)
マリー・アントワネットの兄にあたる
ピルニッツ宣言を発し、革命を牽制
フランツ2世 1768年 - 1835年 - 神聖ローマ皇帝(在位:1792年 - 1806年)
第一次対仏大同盟を結成し、フランス革命戦争を引き起こす
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 1744年 - 1797年 - プロイセン王(在位:1786年 - 1797年)
レオポルト2世と共にピルニッツ宣言を行う
グスタフ3世 1746年 - 1792年 - スウェーデン王(在位:1771年 - 1792年)
反革命十字軍を提唱
フェルセン伯爵の主君
ウィリアム・ピット
(小ピット)
1759年 - 1806年  人類の敵 イギリス首相(在位:1783年 - 1801年、1804年 - 1806年)
3回に渡って対仏大同盟を組織する

フランス革命の研究者

名前 生没年 主な活躍・著書
ジュール・ミシュレ 1798年 - 1874年 フランス 1848年に二月革命が起きると熱狂的に支持
『フランス革命史』は革命研究の古典
エドマンド・バーク 1729年 - 1797年 イギリス 著書『フランス革命の省察』は保守主義のバイブル
革命時にはフランスを軍事力で制圧する対仏戦争を主導
アレクシス・ド・トクヴィル 1805年 - 1859年 フランス 大地主という家柄であったが、革命の際に家族や親戚のほとんどが処刑され、リベラル思想の研究を行う
アメリカ合衆国を旅して著した『アメリカの民主政治』は近代民主主義思想の古典
『旧体制と大革命』はフランス革命に関する著書
アドルフ・ティエール 1797年 - 1877年 フランス 1814年の王政復古で成立していたブルボン朝の独裁的な政治を批判し、『フランス革命史』を著わす
ルイ・フィリップのもとで首相に(1836年 - 1840年)
フランス第三共和政期の大統領(1871年 - 1873年)
中江兆民 1847年 - 1901年 日本 ルソーを日本へ紹介し、「東洋のルソー」の異名を得る
『民約訳解』は、ルソーの『社会契約論』の主要部分を漢訳したもの
自由民権運動の理論的指導者となった

関連項目

テンプレート:フランス革命