菅原為長
テンプレート:基礎情報 公家 菅原 為長(すがわら の ためなが)は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。
生涯
保元3年(1158年)、従四位上・大学頭菅原長守の子として生まれる。
元暦2年(1185年)に秀才、次いで文治3年(1187年)に献策。同年従五位下に叙爵。これ以降、五摂家のひとつ九条家の家司として仕えることとなり、その間、九条家の子弟に対して家業である紀伝道(文章道)の教育にも当たる。
以後、官位は兵部少輔、大内記、式部少輔等を経て、元久元年(1204年)には菅原氏歴代が補任される文章博士に昇進。同年土御門天皇の侍読となり、以降順徳・後堀河・四条・後嵯峨の5代の天皇に亘り侍読を務める。
承元4年(1210年)1歳年少の氏長者菅原在高が従三位に叙せられ、菅原輔正(正暦3年(992年)叙位)以来200年以上ぶりに菅原氏から公卿を輩出するが、翌建暦元年(1211年)には為長も続いて従三位に昇叙され公卿に列した。更に建保3年(1215年)には大蔵卿に転任。以後薨去まで同職に留任することになる(参議に任じられていた2年間を除く)。
承久3年(1221年)には正三位に昇叙。次いで同閏10月には文章博士、大学頭と並び歴代の菅原氏が補任される式部大輔を兼任する。そして終に嘉禎元年(1235年)には、悲願である参議に任ぜられる(同年6月に勘解由長官を兼任)。為長の参議任官は菅原氏においては前述の輔正以来、実に226年ぶりの出来事で、従三位に叙せられたこと以上の大事件であり、為長の参議叙任に関しては、世間から賛否の渦が生ずることとなった[1]。
嘉禎3年(1237年)には参議を辞職。以後没年まで大蔵卿と勘解由長官を兼任。仁治元年(1240年)11月には正二位に叙せられる。寛元4年(1246年)3月28日に薨去。享年89。
為長の事跡と子孫たちへの影響
為長が正二位・参議・大蔵卿叙任という異例の昇進を遂げた理由としては、89歳という長寿を保ったことに加え、以下の理由が挙げられる。
- 30年以上にわたる大蔵卿在任中に蓄積した経済力。
- 大江広元の鎌倉幕府の政所初代別当への就任に代表されるように、家業の紀伝道におけるライバル的存在であった大江氏が朝廷の中心から離脱したこと。
- 為長が家司として務めていた九条家、特に九条道家が鎌倉幕府に対して親幕府的な態度をとっていたために、承久の乱以降も1九条道家の政治顧問として朝廷の中枢に留まることが可能であった事。これは、為長と幕府との関係は北条政子から『貞観政要』の和訳を依頼され、その任に応えている点からも伺う事が可能である[2]。
九条家のブレーンとしての実力は、五代の天皇に亘って侍読を務めていたことからも証明できるものと考えられ、同じ時期に九条家に仕えた藤原定家からも高く評価されている。また、世間から「文道棟梁」「今世之宏才」「当代大才」「国之元老」という賛辞が彼に送られたことも彼の子孫にとって大いなる栄誉となり、明治維新まで堂上家(高辻家・五条家・東坊城家等の六家)として存続できたことの大きな要因となった。
著作
主な著作には『帝国系図』(散逸)、『字鏡集』、『文鳳抄』、『国史綱要』などがあり、あまたの詩文・願文を残すとともに、漢籍の保存にも貢献した。更に日記として『菅大府記』(散逸)、『編御記』(『為長卿記』)がある。
他に『十訓抄』の著者にも擬せられている。