ソ連国家保安委員会
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ソ連国家保安委員会(ソれんこっかほあんいいんかい、テンプレート:Lang-ru-short、略称:КГБ(カーゲーベー)、テンプレート:Lang-en-short)は、1954年からソ連崩壊(1991年)まで存在したソビエト社会主義共和国連邦の情報機関・秘密警察。軍の監視や国境警備も担当していた。
東西冷戦時代にはアメリカ・中央情報局(CIA)と一、二を争う組織と言われていたが、ソ連崩壊と同時にロシア連邦保安庁(FSB)に権限を移行した。日本での略称は КГБ を翻字した KGB(テンプレート:Lang-ru-shortカーゲーベー、テンプレート:Lang-en-shortケージービー、テンプレート:Lang-de-shortカーゲーベー)が使われる。
目次
概要
1958年12月23日付ソ連共産党中央委員会幹部会により承認されたソ連閣僚会議附属国家保安委員会規程によれば、その任務は以下の通りであった。
- 資本主義諸国における諜報業務
- スパイ、破壊工作、テロその他の破壊活動対策
- 反ソ及び民族分子の敵対活動対策
- ソ連軍各組織における防諜業務
- 特殊施設、特別重要産業施設及び輸送機関における防諜業務
- 国境警備
- 党及び政府の指導者の警護
- 政府通信の組織及び保障
- 無線防諜業務の組織
歴史
ロシア革命直後、レーニンの命を受けたフェリックス・ジェルジンスキーが「反革命・テロ・サボタージュ取り締まりのための全ロシア非常委員会」(「チェーカー」)を創立する。そのため、ソ連崩壊(12月)直前の1991年8月までジェルジンスキーの大きな銅像が正面に建てられていた。 本部はルビヤンカ広場の全ロシア保険会社のビルとなった。部員からは「ツェントル」(テンプレート:Lang-ru、中央)と呼ばれ、国民からは「オルガン」(テンプレート:Lang-ru、機関)と呼ばれた。その後、国家政治局(GPU)や、統合国家政治局(OGPU)、スターリンの最側近ラヴレンチー・ベリヤが指揮する内務人民委員部(NKVD)、第二次世界大戦中の国家保安人民委員部(NKGB)、戦後の国家保安省(MGB)を経て、一時内務省(MVD)に統合される。
1954年3月13日、内務省に統合されていた国家保安機能が再び独立し、国家保安委員会 (KGB) が設立された。1978年までは、ソ連閣僚会議附属機関。当時のソ連では、党、軍、そしてKGBを掌握することが最高権力者の必須条件と言われた。特に1967年から15年間議長を務めたユーリ・アンドロポフは当時のソ連政府における最重要人物の一人であり、1982年には書記長に就任している。
1991年、共和国間保安庁(現在のロシア連邦保安庁)、中央情報庁(現在のロシア対外情報庁)、国境警備委員会に分離され消滅した。
ロシア連邦の後継機関
ロシア連邦において現存する後継機関としては、
- ロシア連邦保安庁 (FSB) - 防諜・犯罪捜査
- ロシア対外情報庁 (SVR) - 対外諜報
- ロシア連邦警護庁 (FSO) - 要人警護
- ロシア連邦大統領特殊プログラム総局 (GUSP) - 地下シェルター等特殊施設の建設・運営
がある。また、直接の後継機関ではないが、ロシア連邦麻薬流通監督庁 (FSKN) は、KGB出身者が中核となっている。
CIS諸国の後継機関
ソ連崩壊後、CIS各国は、ソ連構成共和国のKGBを継承して、独自の諜報・防諜機関を創設した。カザフスタン、トルクメニスタン等、一部の国では、スラブ系職員が排除されている。
- ウクライナ - ウクライナ保安庁、ウクライナ対外情報庁
- ベラルーシ - ベラルーシ国家保安委員会
- モルドバ - モルドバ情報・保安庁
- アゼルバイジャン - 国家保安省
- アルメニア - 国家保安庁
- グルジア - 対外情報庁
- ウズベキスタン - 国家保安庁、対外情報庁
- キルギス - 国家保安庁
- タジキスタン - 保安省
- トルクメニスタン - 国家保安省
- カザフスタン - カザフスタン国家保安委員会
なお、バルト三国では、元KGB職員はほぼ完全に排除され、主としてドイツの連邦情報庁・連邦憲法擁護庁を手本に諜報・防諜機関を創設した。
組織[1]
- 第1総局 - 対外情報活動
- 第2総局 - 国内保安と防諜
- 第8総局 - 通信と暗号解析
- 国境軍総局
- 第3局 - 軍の防諜関係
- 第4局 - 輸送
- 憲法擁護局 - 以前の第5局、イデオロギーと反体制活動
- 第6局 - 経済面の防諜と産業の保安
- 第7局 - 監視
- 第15局 - 政府施設の保安
- 第16局 - 通信傍受とシギント
- 技術工作 - OTU
- 軍事建設局
- 第6部 - 通信の傍受と審査
- KGB警護部 - 以前の第9局、政府警護
- 第10部 - 記録保管
- 第12部 - 盗聴
- 調査部
- 政府通信
- ユーリ.V.アンドロポフKGB大学校[2]
- 書記局
- 特別監督局
- 人事局
- 財務・計画局
- 動員局
- 管理・供給局
KGB職員
KGB職員の法律上の地位は、軍人である。当然、軍人と同じ階級呼称を有するが、人事管理は完全に区別される。KGBの組織は、軍の長所・短所をそのまま受け継いでおり、方針を巡る内紛が起こっても命令一下で解決する一方、しばしば、アネクドートで嘲笑されるように、モスクワからの指令なしでは動けない硬直性を有している。
KGB職員は、一般大学出身者が多い。海外のKGB代表部の情報工作将校には、大学卒業後に一般企業などに勤務した経験を有する者も少なくなかった。このことは、KGBが管掌する活動範囲がかなり広く、幅広い人材が必要とされたためと思われる。なお自ら志願したものは決して採用しなかったという。
国境警備隊については、将校は、一般の軍事組織と同様、高等国境指揮学校(士官学校)卒業生が占め、上級の教育はソ連軍の施設を利用した。下士官以下の国境警備隊員は、召集兵である。
軍部隊に配属される公安将校は、一般に該当軍部隊の将校の中から選抜されて、KGBの課程を受けて任命される。このため、公安将校は、配属先の将校と同等の知識、経験を有している場合が多く、冷戦時代に書かれた小説のようなKGB将校とソ連軍将校(主に、GRU(ソ連軍参謀本部情報部))間の軋轢は少なかったという。
また、これも小説などでの描写とは異なり、KGB職員はその身分が明らかになっている場合でも、ソ連国民からマイナス感情を向けられることは(絶無ではなかったにせよ)あまりなかったといわれる。これは、実際にKGB職員に対して不適切な態度をとれば後で何が起こるか分からないという恐怖心もさることながら、KGBが国境警備や防諜といった国家の安全保障に直接かかわる分野を担当していることが国民にも知られており、むしろ頼もしく思われていたという理由もある。
KGB職員は、採用直後にKGB大学校で情報工作課程と語学課程を受けてから、それぞれの部門に配属されていた。海外のKGB代表部には現地語の語学課程を終えた情報工作将校が10年前後にわたり配置されるのが一般的であった。アメリカCIAの工作官は、同じく情報工作課程と語学課程を受けていたが、海外のCIA支局を2~3年で配置を変えていた。KGBでは幹部職員といえども、専門家を育成しようとしていたことがうかがわれる。
KGBに関係する地名
- ルビヤンカ (Лубянка) - 1918年にチェーカーが本部を置いて以来の国家保安機関の中心地。現在、ロシア連邦保安庁の本部庁舎と逮捕したスパイを収監する監獄が存在する。現在の建物は1900年に完成した商業ビルを増築したもので、隣接して百貨店『子供の世界』がありKGBの本部要員が自分から名乗る場合にはこちらは百貨店「子供の世界」の隣の者だがという具合に呼称していた。
ソ連崩壊時に撤去されているが、広場の前にはチェーカーの指導者、フェリックス・ジェルジンスキーの像が立っていた。 - ヤセネヴォ (Ясенево) - 1972年に対外諜報を担当する第1総局がここに移転した。現在、ロシア対外情報庁の本部庁舎が位置する。人里離れた森の中に位置するため、KGB職員のスラングで、「森」 (Лес) と呼ばれた。秘密保持のため、3重の検問が存在し、職員の出退勤時には、特別のバスが運行され、民警がモスクワ環状線の交通を停止させた。
- レフォルトヴォ (Лефортово) - KGB管轄の刑務所。正式名称は、レフォルトヴォ一時収容取調拘置所であり、未決囚を収容するための施設である。建物は、1881年に建築され、帝政時代、既に刑務所として使用されていた。事後、連邦保安庁に至るまで国家保安機関により管轄されている。欧州会議加盟国の基準に従い、2006年に法務省に移管。1997年に史上初の、また2005年には、2度目の脱走が起こった。
歴代KGB議長
- イワン・セーロフ (1954年 - 1958年)
- アレクサンドル・シェレーピン (1958年 - 1961年)
- ウラジーミル・セミチャストヌイ (1961年 - 1967年)
- ユーリ・アンドロポフ (1967年5月 - 1982年5月)
- ヴィタリー・フェドルチュク (フェドルチューク、1982年5月 - 1982年12月)
- ヴィクトル・チェブリコフ (1982年12月 - 1988年10月)
- ウラジーミル・クリュチコフ (1988年10月 - 1991年8月)
- レオニード・シェバルシン(1991年8月)臨時代行
- ワジム・バカーチン (1991年8月 - 1991年12月)
KGB出身の著名人
KGB職員は、ソ連の一般人よりも国際情勢や国内の真の状態について通じていたため、ソ連崩壊後もロシアのウラジーミル・プーチン大統領をはじめ各国の政界等で成功し、いわゆるシロヴィキの中核を構成している。
- セルゲイ・イワノフ - 第1総局
- アレクサンドル・コルジャコフ - 第9局
- セルゲイ・ステパーシン -
- ニコライ・パトルシェフ - レニングラード支局
- エフゲニー・プリマコフ - 第1総局
- ウラジーミル・プーチン - 第1総局
- セルゲイ・レベジェフ - 第1総局
- ワシリー・ミトロヒン - ソ連崩壊後、膨大な機密文書(ミトロヒン文書)を持ってイギリスに亡命した文書管理官
- ヴィクトール・オレコフ - 第5局 反体制派の弾圧を担当していたが、『収容所群島』等の発禁処分を受けた反体制派の本に衝撃を受け、反体制派を支援するようになった。
脚注
関連書籍
- 『KGB帝国』 ISBN 4-422-20263-4
- クリストファー・アンドリュー、オレク・ゴルジエフスキー共著 『KGBの内幕―レーニンからゴルバチョフまでの対外工作の歴史(上・下)』 福島正光訳、文藝春秋 1993年 ISBN 4163482105、ISBN 4163482202