エイドリアン・ニューウェイ
エイドリアン・ニューウェイ(Adrian Newey OBE、1958年12月26日 - )は、イギリス出身のレーシングカー・デザイナーである。日本のメディアにおいてはアドリアン・ニューエイ、ニューウィー、ニューイなどと表記されることもある。現在はF1に参戦しているレッドブル・レーシングのチーフ・テクニカル・オフィサーである。
F1とCARTにおいてレースエンジニア、エアロダイナミシスト(空気力学の専門家)、デザイナーおよびテクニカルディレクターとして活躍。ウィリアムズとマクラーレンとレッドブルで、共に7回コンストラクターズタイトルとドライバーズタイトルの獲得に貢献した。
2012年に大英帝国勲章のオフィサー (OBE)を叙勲した[1]。
経歴
F1に関わるまで
ニューウェイはイングランド中部のストラトフォード・アポン・エイヴォンで生まれ、1980年にサウサンプトン大学の航空工学で一級優等学位 (First Class honours degree) を取得。卒業後、F1のフィッティパルディチームに加入し、新人エンジニアながら空力チーフとしてハーベイ・ポスルスウェイトの下で働いた。
1981年にはマーチへと移籍し、ヨーロッパF2選手権でジョニー・チェコットのレースエンジニアとして働いた後、レーシングカーのデザインを始めた。最初のプロジェクトとなるマーチGTPスポーツカーは大成功し、IMSAタイトルを2年連続で獲得した。同時期、マーチ代表のロビン・ハードと共に横浜ゴム (ASPEC) のTVCMに出演している。
1983年にはマーチのCARTプロジェクトに異動し、1984年型の車両開発を開始した。彼のデザインは高い競争力を示し、1984年のインディ500を含む7勝を記録した。翌1985年、ニューウェイの85Cシャシーはアル・アンサーの手によりCARTタイトルを獲得し、1986年にはボビー・レイホールが同タイトルを奪取することに貢献した。
マーチ(レイトンハウス)時代
自身のデザインした車両がCARTレースで常勝するようになったことから、ニューウェイはマーチを退職する道を選んだ。欧州へ戻ってF1のチーム・ハースに加入したが、1986年シーズンを最後に解散してしまい、ニューウェイはすぐマーチに再雇用された。今度はF1においてチーフデザイナーとして働くためであった。F1処女作となる881は自然給気エンジン搭載車ながらターボエンジンに負けない速さをみせ、1988年日本GPではイヴァン・カペリがマクラーレンのアラン・プロストを抜き、一時トップを走った。
1989年、マーチがレイトンハウスに改名すると、ニューウェイはテクニカルディレクターに昇進した。日本のレイトンハウスの資金をバックに完成した自社風洞でより先鋭的な空力デザインを研究したが、CG891は車体の姿勢変化によってダウンフォース量が急激に変化するという扱いにくいマシンになってしまった。
1990年はCART時代の知り合いであるイルモアにレイトンハウスが資金提供し、翌年に向けてF1用エンジンを開発するという話がまとまる。しかし、チームの成績は低迷し続け、その年の夏にニューウェイは解雇された。皮肉にも、ニューウェイ離脱直後のフランスGPでカペリが殊勲の2位を獲得した。
ウィリアムズ時代
レイトンハウスを去ったニューウェイを、ウィリアムズがチーフデザイナーとして招聘。テクニカル・ディレクターのパトリック・ヘッドが駆動系やサスペンションを担当し、ニューウェイがシャシーや空力を担当するという共同開発体制がスタートした。ニューウェイはベテランデザイナーの元で多くを学び、両者の個性が上手く噛み合うことで、ウィリアムズのマシンは戦闘力を高めた。
1991年、FW14で新たに投入したセミオートマチックトランスミッションにトラブルが多発し、シーズン序盤はマクラーレンMP4/6のアイルトン・セナが4連勝を上げるなど劣勢であった。中盤から信頼性・戦闘力が共に向上したことによりナイジェル・マンセルが追い上げ、終盤までタイトル争いはもつれたが、タイトル獲得には至らなかった。
1992年に投入したFW14Bは、FW14にアクティブサスペンション(商標登録上「リアクティブ・サスペンション」と呼ばれた)とトラクションコントロールシステムを搭載した、マイナーチェンジのマシンであったが、車高を任意の状態で維持することが可能となった。全16戦中10勝、ポールポジションを15回獲得し、マンセルは初のワールドチャンピオンを獲得し、ウィリアムズは1987年以来のコンストラクターズタイトルを手にした。ニューウェイが手掛けたマシンがタイトルを獲得したのもこの年が初である。1993年にはFW15Cを駆るアラン・プロストとデイモン・ヒルによって2度目の両タイトルを得た。
1994年、FW16は前年まで最大の武器であったアクティブサスがレギュレーションで禁止された上に、リアサスペンションの設計が裏目に出て、再び空力的な不安定さを抱えるようになった。この頃、ドライバーのアイルトン・セナは、友人のゲルハルト・ベルガーに「ゲルハルト、マシンをドライブするなんてことはできないよ。マシンには空力的にドライブが難しい部分があったようだ。パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていない。」と語っている[2]。セナは第3戦サンマリノGPで事故死し、事故を知ったニューウェイはピットで号泣した。ウィリアムズは3年連続のコンストラクターズタイトルを獲得したが、ドライバーズタイトルはベネトンのミハエル・シューマッハにさらわれた。
1996年はヒルとジャック・ヴィルヌーヴの活躍によりダブルタイトルを獲得したが、ウィリアムズはヒルとの契約を更新しないことを決めた。ニューウェイに事前の相談はされておらず、この事に激怒したと言われており離脱は決定的となるテンプレート:Refnest。シーズン終了後の11月8日、ニューウェイは「ウィリアムズは契約不履行している」と主張し、出社を止めた[3]。これに対して、ウィリアムズは高等法院に申し立て、裁判闘争になる。この頃、すでにマクラーレンと契約を結んだという話もあるが、ともあれニューウェイがいつからマクラーレンで働くことが出来るか、この時点では不明だった。ヘッドは「裁判へと向かっているものの、その前に我々とマクラーレンとの間で、何らかの話し合いが行なわれる可能性がある」と語っている。
移籍理由として「年俸$2,000,000の提示とテクニカル・ディレクターとして仕事ができること[3]」という報道もあったが、「ウィリアムズは、フランク(・ウィリアムズ)とパトリック(・ヘッド)が厳然と存在していた。でも僕は、別にウィリアムズの居心地が悪くなったわけじゃなく、何か新しいことがしたかったと思っていた。そんな時にメルセデスベンツエンジンの開発担当であるイルモアの代表者マリオ・イリエン(マーチ時代の友人)から誘われた[4]」と語っている。後年、フランク・ウィリアムズは離脱の原因として、ニューウェイがチームの株式保有を望んだことについて意見の不一致があったと語り、結果的には自分のミスだったと認めている[5]。
ウイリアムズ時代にニューウェイが手掛けたマシンは通算51勝を挙げた。
マクラーレン時代
1997年に入り、ニューウェイは実質的に休暇の身であった。やがてウィリアムズとマクラーレンとで示談が成立し、ニューウェイは8月からマクラーレンの現場で働き始めた。合流後はニール・オートレイによってデザインされたMP4-12の改良を行いながら、1998年に投入するMP4-13の開発にも関わった。もっともニューウェイ曰く「MP4-13の設計は進んでいたため、細かい箇所に自分のアイデアを入れた。自分で一から設計したのはMP4-14以降のマシンである」と語っている。
その後、ミカ・ハッキネンが1998年と1999年に2年連続のワールドチャンピオンとなり、マクラーレンも1998年のコンストラクターズタイトルを獲得した。2000年はハッキネンがミハエル・シューマッハとドライバーズタイトルを争い、惜しくも3年連続タイトルは逃した。コンストラクターズタイトルも信頼性の低さに泣かされ1999年、2000年と2年連続でフェラーリから奪還できなかった。
2001年、MP4-16は開幕当初からメカニカルトラブルが頻発。その改善に集中しなくてはいけない時期の5月に、ニューウェイがジャガーへ移籍するという話がでてきた。ジャガーのマネージャーであるボビー・レイホールに対し、ニューウェイは一旦契約にサインしたものの、ロン・デニス代表の説得で移籍を止めた。この問題が解決するまでシーズン中のマシン開発が止まることとなり、結果的にフェラーリへ両タイトルを取られてしまい、4勝に留まった。
デニスがどのようにニューウェイを説得したのかという詳細はその後も明らかにはされなかったが、ニューウェイにヨットをデザインすることを認めるという取引をしたのではないかという報道があった。かねてより「F1からリタイアしたらアメリカスカップ用のヨットをデザインしたい」と希望しているという話が知られていたが、その後ニューウェイがヨットをデザインしたという記録は残っていない。ニューウェイの心変わりは、ジャガーのオーナーであったフォードに対するレイホールの面目を事実上潰してしまい、数ヵ月後にレイホールはジャガーから解雇された。
2003年は、MP4-18がテスト時に周回を重ねられず、クラッシュテストにも合格できなかったので、投入を断念した。結局、前シーズンのMP4-17を改良したMP4-17Dを使い続けた。同マシンの信頼性は高かった為、キミ・ライコネンがタイトルを争いに加わったが、最終戦で惜しくもフェラーリに両タイトルを奪われた。
ニューウェイは残留しているものの、マクラーレンから離れたがっているという噂は依然として残り、2004年終盤には彼がウィリアムズに戻る、あるいは完全にF1の仕事から手を引くのではないかという噂が流れていた。デニスが繰り返し否定したものの、2004 - 2005年のオフシーズンにはニューウェイが近々離脱するという話が広まることとなった。
2005年、それまでフェラーリ一辺倒であったシーズンの流れを、マクラーレンはルノーとともに主導権を奪い返すことに成功し、終盤戦までタイトル争いを繰広げた。こうした中、2005年4月には彼の契約が6ヶ月延長されて2005年12月31日までとなったことが発表された。
マクラーレン時代にニューウェイが手掛けたマシンは通算43勝を挙げた。
レッドブル時代
マクラーレンから離れたニューウェイは、長期休暇をとるか、または完全にF1のデザイン業務から引退すると予想されていた。2005年11月9日、それまでの大方の予想を覆し、レッドブルチームのスポーティングディレクターのクリスチャン・ホーナーから、ニューウェイがマクラーレンとの契約終了後の2006年2月に同チームに移籍するということが発表された。ポジションは最高技術責任者(CTO)で、マシン開発を行う「レッドブル・テクノロジー」からレッドブル・レーシングへ派遣される形となる。2009年までは、姉妹チームのトロ・ロッソにもレッドブル・テクノロジーからマシンが供給された。
レッドブルではすぐには結果が出なかったが、デザインに関する裁量権を与えられ、自身を中心とするエンジニアリングチームの構築を行った。テンプレート:F1イタリアGPで、レッドブルよりも先にトロ・ロッソが初勝利を獲得した。
テンプレート:F1、空力規定の大幅な改訂にあわせてRB5を開発。レッドブルは中国GPで初優勝し、優勝を争うトップチームのひとつに躍進した。同年のブラジルGPでマーク・ウェバーが優勝し、自身の手掛けたマシンが通算100勝目を達成した。
テンプレート:F1以降はRB5をベースに進化型のマシンを投入。プルロッドの採用やブロウンディフューザーの開発など、車体のリアエンドの空力設計において独創性を発揮した。同年にはRB6を擁してレッドブルがダブルタイトルを制覇し、ニューウェイがデザインしたマシンでのコンストラクターズチャンピオン獲得は1998年のマクラーレン時代以来となった。テンプレート:F1もRB7が年間19戦中18ポールポジションを獲得し、ダブルタイトルを連覇した。
人物・エピソード
- コンピュータ上での設計 (CAD) が常識となってからも、製図板を使い、鉛筆と定規で図面を描く方法を貫いている[6]。
- 空力的な追求において妥協を好まず、マーチ時代にはリアウィングの裏面にスポンサーのステッカーを貼ることを嫌った。また、レーシングスーツの肩に付いている緊急救助用のストラップも気になるほどだった。イヴァン・カペリが「コクピットが狭すぎてシフト操作ができない」と不平を漏らすと、シフトレバーを曲げて対処した。コクピットの狭さについて、カペリは「レースが終わると青あざだらけだった」「自分より大柄なマウリシオ・グージェルミンは気の毒だった」と語っている[7]。
- また、レイトンハウス時代にはエンジンカウルをタイトにデザインするためジャッドにオーダーを出し、バンク角を75度に狭めたEVエンジンを開発してもらった[8]。
- レース開始前にはダミーグリッド上を歩き回り、他チームのマシンをつぶさに観察する。これを嫌って、視界を遮ろうとするチームもある[9]。
- デザインだけでなく、自ら本格的なレースにも出場する。2007年にはル・マン24時間レースでフェラーリ・F430GTをドライブし、総合22位(クラス4位)の成績を収めた。2010年にはジネッタ・G50カップでクラッシュし、ケガはなかったものの病院に搬送された[10]。レッドブル代表のクリスチャン・ホーナーは「エイドリアンは独特な男だし、自由を必要としている。マクラーレンではそれはなかった」と述べ、ニューウェイのレース活動を禁止しないと語った[11]。
脚注
テンプレート:レッドブル・レーシング テンプレート:マーチ テンプレート:ウィリアムズ
テンプレート:マクラーレン- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 独占インタビュー! ベルガーが語るセナ
- ↑ 3.0 3.1 『AS+F-'97年オーストラリアGP号』 三栄書房、30頁、1997年。
- ↑ 『GPX』 Australian GP issue/210、山海堂、15頁、1998年。
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- ↑ 『F1速報PLUS vol.24 特集 2012空力研究』 イデア、2012年。
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 尾張正博 "今季F1を制するのは師匠か弟子か?マクラーレン出身エンジニアの戦い。". Number Web.(2013年2月21日)2013年5月20日閲覧。
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