モスクワの戦い
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | モスクワの戦い | |
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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 300px 1941年12月 モスクワから前線に移動中の新規部隊。 | |
戦争:第二次世界大戦(独ソ戦) | |
年月日:1941年10月2日~1942年1月7日 | |
場所:ソビエト連邦 ロシアSFSR モスクワ州 モスクワ近郊 | |
結果:ソ連軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:Flagicon ドイツ国 | テンプレート:SSR1923 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:Flagicon フェードア・フォン・ボック テンプレート:Flagicon ハインツ・グデーリアン テンプレート:Flagicon アルベルト・ケッセルリンク |
テンプレート:Flagicon ゲオルギー・ジューコフ テンプレート:Flagicon アレクサンドル・ヴァシレフスキー |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 1,000,000 | 1,250,000 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 248,000~400,000 | 650,000~1,000,000[1] |
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モスクワの戦い(モスクワのたたかい、ロシア語:Московская битваまたはБитва за Москву ロ-マ字表記、Bitva za Moskvu)は、第二次世界大戦中の1941年10月2日より行われたドイツ軍によるモスクワへの攻略戦「タイフーン作戦」(ドイツ語:Unternehmen Taifun)によって行われた戦闘のことである。タイフーン作戦は、バルバロッサ作戦の第2段階として敢行された。
経過
ドイツ軍の進撃
ハインツ・グデーリアン率いる第2装甲集団は、9月13日突如北東に向かい、ソビエト赤軍の防衛線から120kmほど離れたオリョールを目指す。同装甲集団は10月3日にオリョールを落とし、同時にブリャンスクを攻撃した。さらにヘルマン・ホト率いる第3装甲集団、エーリヒ・ヘープナー率いる第4装甲集団がモスクワの真西に位置するヴャジマ方面へ突破。ブリャンスク周辺とヴャジマ周辺に2つの包囲網を形成し、相当な戦力を有するソ連軍を壊滅、事実上ソ連第19軍を主力とする西部戦線司令部は機能しない状態にまで追い込んだ。
10月14日には、第3装甲集団はヴォルガ川を渡河し、モスクワとレニングラードを結ぶ鉄道を断ったほか、10月末にはグデーリアンの部隊がトゥーラ近郊まで到達することに成功した。
ソ連軍の反撃
モスクワ陥落の危機にヨシフ・スターリンはレニングラード攻防戦を一段落させたゲオルギー・ジューコフに首都防衛を命じた。同時にソ連国防委員会は、政府機関や工場等をウラル方面へと疎開しつつもモスクワ市民を中心にドイツ軍に立ち向かわせ、冬将軍が来るまでできるだけ長く足止めをするという作戦を実行する。これには周辺士官学校生やコムソモール員からなる共産主義者義勇団等を大量動員、不足していた防衛前線へ人員補充の為に送られた。その中には後にパルチザン英雄として称賛される若きコムソモール、ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤも含まれている。彼女はドイツ軍駐屯地への放火に依りドイツ軍に処刑されたが、これはソ連軍及びコムソモールの士気を高める材料には十分となった。
SS師団 ダス・ライヒと第10装甲師団はモジャイスク周辺でソ連軍の反撃を受け、突破した部隊も進撃の勢いは失っていた。10月になり、ついに天候が悪化しはじめ雨が多くなると、舗装されていないソ連の道は泥沼と化した。これがドイツ軍にとって致命的な障害となり、装甲部隊の前進も、物資の補給もままならなくなった。一方、ソ連軍はこうした自然条件に慣れていたのと、ドイツ軍に比べ長距離の移動を必要としない防御戦であるためにさほど問題はなかった。この10月中のドイツ軍の前進の鈍化がモスクワの防衛体制を整える時間的余裕を与えた。また、戦意高揚の為この防衛戦の最中であっても11月7日の革命記念日には、ドイツ軍を尻目に恒例のスターリン演説と軍事パレードを敢行した。
11月になると天候は回復し、気温が低下。霜が降りて路面状態は良好となり、ドイツ軍の進撃スピードは回復する。しかし、ドイツ軍は冬までに作戦を終了させる予定だったため、厳冬に対応した衣類や装備をしておらず、何よりも伸びきった補給線が限界に到達しようとしていた。また、ソ連軍はドイツ軍に物資を残さない徹底的な「焦土作戦」を実施し、補給の現地徴収もほぼ不可能となりドイツ軍はいよいよ窮乏に瀕した。
11月末には、各所でドイツ軍の攻勢が頓挫。南部からモスクワを目指した第2装甲集団はトゥーラを落とせないまま、これを迂回し前進を継続していたが、モスクワ南方を流れるオカ川の線で前進を阻止された。北方から進撃した第3装甲集団は北部の要衝クリンを制圧し前進したが、北部からのモスクワ突入はならなかった。西方正面では第4装甲集団がクレムリンから25kmの地点のモスクワ郊外にまで達し、前衛部隊はクレムリンの尖塔を眺める位置に(前線の工兵部隊はモスクワまで8kmの地点まで前進したとの噂もあった)あった。
しかし、例年よりも早く冬が到来しドイツ軍の進撃は完全に停止する。気温が零下20度以下にまで下がり、ドイツ軍の戦闘車両や火器は寒冷のため使用不能に陥った。ドイツ軍には兵士の防寒装備も冬季用のオイルも不足しており、車両や航空機も満足に動かせない状態となった。医療品の不足から凍傷にかかる兵士が続出した。特に軍靴は長距離進軍に耐えるため底に鋲が打ってあり、足に冷気を伝え凍傷の原因となった。対してソ連軍は靴底に鋲を打たないブーツを使い、兵士には一回り大きいサイズのブーツを支給し、隙間に新聞紙や藁を敷き詰める等防寒装備は充実していた。
ドイツ空軍はソ連のモスクワ防衛の要衝・イストラを占領したが、翌日からソ連空軍の猛爆撃が始まり、制空権はソ連側にあった。10月25日のモスクワ空襲を最後にドイツ空軍は出撃不能となった。
ドイツ軍の攻勢に同調した日本軍の極東ソ連への侵攻計画なしとの10月4日付のゾルゲからの東京情報にスターリンは安心してソ満国境に配備された冬季装備の充実した精鋭部隊をモスクワ前面に移送して首都防衛を強化した。ドイツ軍は守勢に立たされ、戦うことよりも自分の生命を守ることを優先するほどであり、退却を重ねた。
12月5日、モスクワ攻略の続行不可能が明白となり、ブラウヒッチュ、ボック、レープ、ルントシュテット各元帥、ホト、ヘープナー、グデーリアン各大将と35名の将軍更迭を以て作戦は失敗に終わった。
エピソード
- モスクワ防衛に成功したソ連スターリン宛に同年12月16日、アメリカ大統領ルーズベルトから連合国を代表して祝電が送られている。
- 東京発10月4日付のゾルゲ報告は直後日本側に摘発、ソ連へはゾルゲ最後の報告となった。
参照
参考文献
- Erik Durschmied 『ウェザー・ファクター;気象は歴史をどう変えたか』高橋則明(訳)、東京書籍、2002年、ISBN 4-487-79667-9
- ゲオルギー・ジューコフ著 清川勇吉,相場正三久,大沢正 共訳 『ジューコフ元帥回想録 : 革命・大戦・平和』、朝日新聞社、1971年
- パウル・カレル著 松谷健二 訳 『バルバロッサ作戦 : ソ連侵攻に賭けるヒトラー』、フジ出版社、1986年
- ↑ Bergström, Christer (2007). Barbarossa - The Air Battle: July-December 1941. London: Chervron/Ian Allen. p 111.