大久保忠常
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テンプレート:基礎情報 武士 大久保 忠常(おおくぼ ただつね)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。武蔵騎西藩の初代藩主。相模小田原藩主・大久保忠隣の長男。母は石川家成の娘。正室は奥平信昌の娘(母は徳川家康の長女・亀姫)。子に忠職(長男)、娘(片桐貞昌正室)、娘(本多重能正室)、娘(里見忠義正室)。通称は新十郎。官位は従五位下加賀守。
生涯
幼少時から智勇に優れた人物で、家康・秀忠父子からも気に入られており、三河譜代の子弟達と共に秀忠の御前で執り行われた元服時には、秀忠から「忠」の偏諱を賜っている。武蔵騎西に2万石を与えられた上、将来の老中職も約束されていた。忠常は慈悲深く温厚篤実な人物で、余人からの人望も厚く、父も忠常の将来を期待していたと言われている。しかし慶長16年(1611年)、父に先立って32歳の若さで死去してしまった。
『徳川実紀』では、忠常の死は病死とされているが、それに関して疑わしい記述もある。「忠常若年ながら其権威すこぶる佐渡守(本多正信)が右に出たり。正信常にこれを嫉妬せしかば、その死に望みかれに親しき徒までも悪し様にはからひしと言ふ」とあるように、当時、父の忠隣と権勢を競っていた本多正信・正純父子の手によって暗殺されたのではないかという疑いもある。忠隣は愛する嫡男の急死に意気消沈して屋敷に引き籠もりがちになり、やがてそれが慶長19年(1614年)の改易につながったのであった(大久保長安事件)。但し、弟の石川忠総と子の忠職はやがて許され、大名に復帰した。