伊東尹祐
伊東 尹祐(いとう ただすけ、応仁2年(1468年) - 大永3年11月8日(1523年12月14日))は戦国時代の人物で、日向国の戦国大名。伊東祐国の子。伊東祐梁、伊東祐武の兄。妻は阿蘇氏娘、中村氏娘、福永氏娘。男子(生母は中村氏)、祐充・義祐・祐吉(いずれも生母は福永氏)、女子(島津忠治妻)がいる。大和守。将軍足利義尹(のち義稙)より偏諱を賜り尹祐を称す。
略歴
文明17年(1485年)、父の祐国が島津忠昌(武久)と日向飫肥城で戦って戦死したため、その跡を継いで当主となった[1]。幼少であったため、しばらくは目立った行動は無かったが、成長した明応4年(1495年)に入ると、父の仇を討つために大軍を率いて自ら島津忠昌を攻めようとしたが、島津忠昌は彼の復讐を恐れて日向国三俣院1,000町の所領(三股一千町)を与えることで何とか和睦を取りまとめている[1]。その後、永正元年(1504年)、都城に兵を進めたが、北郷数久がこれを撃退している。
あるとき、尹祐は美貌の福永祐炳の娘を側室に所望する。その娘は既に垂水又六と婚姻していたのであるが、尹祐は半ば強引に別れさせ側室に迎えたという(又六には河崎氏の息女を娶せた)。永正7年(1510年)、その寵愛する福永氏の娘が懐妊すると尹祐は、その子が男子であれば中村氏との間に生まれていた子を廃嫡しようと企図する。綾の地頭で家老の長倉若狭守祐正と垂水但馬守はこれを諌めたがために不興を買い、なおかつ綾地頭職を欲していた稲津越前守重頼の讒言もあって対立、身の危険を感じた祐正らが9月1日に綾城に立て籠もったため、綾の乱と呼ばれる混乱を招いた。事件は10月17日に両名が切腹したことで決着し、乱の最中の9月13日に誕生した祐充が尹祐の後継者と定められた。
島津氏や北郷氏との抗争をすすめ、日向南部の経略をたくましくし、その大半を版図に治めることに成功した。大永2年(1522年)には弟の祐梁と祐武を派遣し北郷氏の都城を攻撃させ、翌年には北原氏と同盟し北郷氏の支城である野々美谷城を攻撃し、落城させたものの、尹祐はその陣中にて没した[注釈 1]。享年56。法名は「大用慈全大用寺殿」。また、祐梁も一月後の12月10日に急逝してしまったため、城を放棄せざるを得なくなった。
家督は子の祐充が継いだが幼かったため、外戚の福永祐炳ら福永一族が家中で専権を振るうようになった。
脚注
注釈
引用元
参考文献
関連項目
- 『日向記』