九州探題
九州探題(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。
概要
前史
鎌倉時代の永仁元年(1293年)に鎮西探題が設置されたが、後にそれを踏襲する形で、室町時代に九州の統治のため設置された。室町幕府は京都に政権を置いたため、鎌倉に設置された鎌倉公方が関東を中心に、奥州探題が東北地方を統治する。九州探題は九州統治を担当し、李氏朝鮮との外交なども行った。後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏が京都奪還に失敗して九州へ落ち延び、少弐氏と共に多々良浜の戦いで宮方の菊池氏らを破り、東上した際に一色範氏を大宰府に残したのが始まりである。
だが、九州においては島津氏、大友氏などは従わず、少弐氏とも対立する。後醍醐天皇の皇子である懐良親王が菊池氏に迎えられ、大宰府を奪還して九州に南朝勢力を築いた。斯波氏経、渋川義行が任じられた後、3代将軍足利義満時代の応安3年/建徳元年(1370年)に管領の細川頼之により今川貞世(了俊)が任命され、南朝勢力の掃討、御家人の守護被官化に務める。了俊は朝鮮からの使者も迎え、倭寇討伐の要請などを受け幕府の日明貿易(勘合貿易)開始に関わる。
渋川氏の世襲
康暦元年/天授5年(1379年)の康暦の政変で了俊を支援した頼之が失脚し、九州で独自の勢力を持っていた了俊は応永2年(1395年)に解任され、後任に渋川満頼が就任、以後は渋川氏代々が世襲する。
しかし、少弐氏との戦いで渋川氏は衰退、中国地方の大内氏の後援なしに存続できなくなるまでになった。そして渋川義長が少弐氏に通じたため、天文3年(1534年)に大内氏に討ち取られ渋川氏は断絶、九州探題も途絶した。義長の一族とされる渋川尭顕が後を継いだとする説もあるが、彼もすぐに戦死したとされている。
戦国時代にも形式的な幕府の職として存在し、渋川氏の滅亡後には大友宗麟らが任命された。江戸時代には同様の役割を担う西国郡代が設置された。
歴代九州探題
- 武田信武(任:1333年 - 133?年{北朝方})
- 一色範氏(任:1336年 - 1346年{北朝方})
- 一色直氏(任:1346年 - 1351年{北朝方}、1351年 - 1352年{南朝方}[1]、1352年 - 1358年{北朝方})
- 足利直冬(任:1351年 - 1352年?{北朝方}、1353年/1354年? - 1361年{南朝方})
- 細川繁氏(任:1358年{北朝方})
- 斯波氏経(任:1361年 - 1365年)
- 渋川義行(任:1365年 - 1370年)
- 今川了俊(任:1370年 - 1395年)
- 渋川満頼(任:1396年 - 1419年)
- 渋川義俊(任:1419年 - 1428年)
- 渋川満直(任:1428年 - 1434年)
- 渋川教直(任:1434年 - 1479年)
- 渋川万寿丸(任:1479年 - 1487年)
- 渋川刀祢王丸→渋川尹繁(任:1487年(一説に1500年) - 1504年?)
- 渋川義長(任:1504年? - 1533年)
- 渋川尭顕?(任:1533年? - 1534年?)
- 大友義鎮(任:1559年 - ?)