三好元長

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テンプレート:基礎情報 武士 テンプレート:Sister 三好 元長(みよし もとなが)は、戦国時代阿波国武将細川晴元(六郎)に仕え、その偏諱を与えられて元長と名乗る。

父に関しては三好長秀という説が有力であるが、祖父で長秀の父三好之長の子という説もある。本来ならば之長の後継者だった長秀が早くに戦死したため、之長が元長を長秀の養子にしたという説もある。

生涯

挙兵、政権奪取

永正17年(1520年)、三好氏の総帥であった之長は細川高国に敗れた際に処刑されており、その世子であった長秀はそれ以前に戦死していた。このため、之長の直系であった元長が三好氏の新たな総帥となったものの、高国への反撃に出られぬまま阿波において、之長が擁立していた主筋である細川澄元の遺児六郎(後の晴元)と共に逼塞していた。

将軍に返り咲かせた足利義稙との仲違いに陥ろうとも、新将軍に足利義晴を据える事で磐石を保とうとした高国の独裁政権は、大永6年(1526年)7月に細川尹賢の讒言で香西元盛を誅殺した事から綻びを見せた。謂れの無い上意討ちに元盛の2人の兄波多野稙通柳本賢治丹波で造反するも、高国の政権は鎮定できぬほど軍事力の弱さを露呈したのである。

これを好機と捉えた元長達は、同年10月に阿波で挙兵。足利義維(義晴の兄弟)を擁して高国軍に挑む主君・六郎を助けて、畿内まで進軍して越年。高国に造反した波多野軍との合流を果たすと、翌7年(1527年)3月には官軍(高国と義晴の連合軍)と激突し、これを撃破(桂川原の戦い)。官軍を近江へ追い落とし、立場を逆転させた。

さらに、遁走により政治機能を喪失した高国政権に替わるべく堺公方(堺大樹)の樹立に貢献。同年11月19日には、近江の六角定頼越前朝倉宗滴らの加勢を得て、堺公方派の駆逐を期する高国軍を桂川周辺の泉乗寺で撃退、六郎による新たな畿内支配体制を確立させるべく大いに尽力した[1]

退去、再び畿内へ

大永8年(1528年)7月、それまでの功績により山城守護代に任じられたが、翌享禄2年(1529年)には新たに同僚となった柳本賢治らと折り合いを悪くした為、阿波に逼塞する。

その間、伊勢の婿・北畠晴具の他に、ようやく播磨守護代・浦上村宗の加勢を得て、再挙兵した高国軍が中央進出のための地固めとして、播磨国内の各地を転戦、勝利を重ねていた。その播磨へ迎撃派遣された柳本賢治を享禄3年(1530年)6月の急死(暗殺とも)で失うと、高国と村宗の連合軍には8月に摂津への侵攻を許すなど、元長不在の堺公方派は旗色が悪くなり、ついには薬師寺国盛のような高国軍に降伏する者が現れるなど、窮地に追い込まれつつあった。

享禄4年(1531年)2月、六郎の懇願によって復帰するも、事態は逼迫していた。播磨からの転戦に次ぐ転戦で、破竹の進撃を見せてきた高国と浦上の連合軍には手を焼かされ続けた上に、翌3月には堺公方派で河内からの新参・木沢長政が京の防備を放棄し、撤退した為、高国軍の京都奪還を許してしまう。

目障りな堺公方を討滅せんと、意気盛んな高国軍に摂津南部まで迫られた窮地に際し、阿波からの増派軍8000を得て、高国軍の先鋒に打撃を与えた堺公方派ではあった。しかし増派軍を加えたとはいえ、堺に鎮座する義維を守るための戦力を半数以上も割かねばならぬ為、純粋に高国軍と対峙するには少なく、元長の手腕に依存するところが大きかった(中嶋の戦い)。

戦局は高国軍の出鼻を挫いたために警戒され、戦線の膠着化を招いた。そして同年6月、高国軍の増援として現れた赤松政祐の裏切りにより事態は進展。呆気ないほどの大勝で高国軍を壊滅させた(大物崩れ[2]

主君との対立

仇敵・高国の討滅という目標を達成した堺公方派ではあったが、その内部では以後の方針を巡って不協和音が生じだした。現職の義晴から将軍職を剥奪し、自分達が擁する義維を新将軍に据えさえすれば、六郎の堺幕府は公認されるという中で主君の六郎が、あろうことか義晴との和睦を推し進めようとしたのである。

せっかく苦労して築いてきた堺幕府の放棄にも等しい六郎の決断には、河内の畠山義堯(六郎の義兄弟)と共に断固反対したが、聞き容れてもらえなかったばかりか、かえって大きな溝をつくってしまう。これまでの大功が災いしたのか、六郎からはその存在を次第に危険視されてゆく。しかも、六郎の配下としての有望な地位を狙う木沢長政や、元長の失脚を願う一門で従叔父三好政長(宗三)らの暗躍もあって、その溝は一段と深まった。

更に元長自身も失策を犯していた。京都三条城に籠もっていた柳本甚次郎(かつて対立していた賢治の子)を、享禄5年(1532年1月22日に阿波軍を率いて討滅させてしまうと、六郎の怒りを恐れて出家、海雲と号した。阿波守護・細川持隆(六郎の従弟)による、六郎との関係修復の執り成しも成功せず、主従関係を一段と悪化させた。

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飯盛山城の模型/大東市歴史民俗資料館所蔵

やがて、木沢長政の存在で立場を悪くしていった元長は、同じく木沢長政の下克上を警戒する畠山義堯(長政の主筋)と結託。義堯による上意討ちを支援する形で、同年8月には長政の居城・飯盛山城を攻囲した。

高国討滅から僅か2ヶ月という堺公方派の内輪揉めであったが、長政を擁護しようとする六郎からの撤兵要請もあって、1度は兵を退けた。しかし、長政の野心を危ぶんだ畠山義堯によって、翌5年(1532年)5月、飯盛山城を再攻囲。元長も遅れて支援に加わった。この時も主筋の六郎が長政を擁護する姿勢を見せていたが、それにも構わず飯盛山城の包囲し続けた為、長政の命運は尽きかけた[3]

最期

木沢長政討滅が時間の問題となっていた翌6月15日。攻囲軍が一転、窮地に陥った。突如として数万の一向一揆軍によって、背後から襲撃されたのである。攻囲軍は瞬く間に追い散らされ、元長も命からがら堺の顕本寺法華宗)まで逃げ戻った。一方、追撃の手を緩めぬ一揆軍に観念したのか、同月17日に畠山義堯は自害した。

自力での攻囲軍排除を不可能と判断した六郎や長政達は、かねてからの一向宗と法華宗の宗教対立を利用。山科本願寺(本願寺10世証如)から了承を得て、一揆軍に支援を仰いだのである。この時の一揆軍にとって、飯盛山城の攻囲軍を追い散らす事よりも、一向宗にとっての仏敵討滅が目的であった。すなわち、一向宗に敵対する法華宗の庇護者であった元長の討滅である。畠山義堯は言わば、巻き添えをくったようなものであった。

同月20日、顕本寺を取り囲んだ頃には一向一揆軍は一段と膨れ上がっており(総勢10万とも言われる)、義維を逃がすのに精一杯だった。主君から見限られた上に、勝ち戦を大敗北に貶められた元長は自害して果てた。享年32[4]。 その自害の様とは、自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物を天井に投げつけたという壮絶さであった[5]

こうして無念の最期を遂げてしまった元長であるが、彼の子の長慶、義賢、安宅冬康、十河一存らはいずれも名将で、彼の息子達によって三好氏は大きく飛躍。政権を掌握するほどの最盛期を築くに至った。死後から20年余、長慶によって堺には元長の菩提を弔う南宗寺が建立された。

脚注

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参考文献

関連項目

テンプレート:三好家当主
  1. 長江、P35 - P46、今谷、P75 - P93、福島、P71 - P74。
  2. 長江、P47 - P55、今谷、P93 - P104、福島、P74 - P76。
  3. 長江、P55 - P58、今谷、P105 - P108、福島、P76 - P80。
  4. 長江、P58 - P59、今谷、P109 - P111、福島、P80 - P82。
  5. 『堺鑑』(続々群書類従第8地理部 明治39年8月25日発行 p.635)