レザー・パフラヴィー
テンプレート:基礎情報 君主 テンプレート:Commons&cat レザー・シャー・パフラヴィー(テンプレート:Rtl翻字併記、1878年3月16日 - 1944年7月26日)は、パフラヴィー朝イランの初代皇帝(在位:1925年12月15日 -
1941年9月16日)。即位前はレザー・ハーンと称された。レザーの名は第8代イマームのアリー・リダーに由来し、アラビア語・前近代ペルシア語ではリダー・ハーンと発音される。
1960年まで発行されていた複数のイラン・リヤル紙幣に肖像が使用されていた。
生涯
生い立ち
1878年、カスピ海南岸のマーザンダラーンの名門の家に生まれた。若くして軍人となり、ペルシアのコサック師団の将校となる。
首相就任
1921年に、2500の兵を率いてテンプレート:仮リンクを起こしてテヘランを奪い、1919年に結ばれていたテンプレート:仮リンクを破棄して治外法権の撤廃に成功した。
1924年から1925年の間はイラン国軍の司令官、首相となる。
皇帝即位
そしてこれらの経緯から国民の人望を得たレザーは、1924年にカージャール朝の廃止を議会で議決し、翌年に自ら帝位に就いてパフラヴィー朝を創設した。
その後は国内統治に尽力する。1926年には司法改革に着手。1927年には国民銀行の創設。1929年には義務兵役制度(徴兵制度)を制定する。さらにアメリカから財政顧問官を招聘して財政改革に当たり、差別的な風潮をなくすために女性解放の制度を定めたり、教育改革を行なったりするなど、国家の近代化に努めた。
対外的には国際連盟に加盟し、1935年には国号をペルシアからイランに改名し、中央集権化を確立した。さらに1938年にはイラン縦貫鉄道を完成させるなど産業の育成にも尽力した。しかし国家の近代化を進めたことは多くからの支持を集めていたが、政治においては皇帝による独裁色が強かったために国民の反発を招いた。またイスラームを軽んじたために、多くの反発を生むことにもなった。
退位
第二次世界大戦が勃発すると、レザーはイランの中立を宣言したが、その態度は枢軸国寄りであり、さらに親ナチス・ドイツ的な政策を採ったために、1941年にイギリスとソ連の連合軍が侵攻してくると(イラン進駐 (1941年))、子のモハンマド・レザーに帝位を譲って退位することを余儀なくされ、モーリシャス島に事実上亡命した。その後、南アフリカのヨハネスブルグに移り、同地で1944年に67歳で死去した。
評価
皇帝として同国の近代化に努めたことは高く評価されているが、独裁を強めたことが自らの運命を暗転させてしまったという評価がある。
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