扶餘郡
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テンプレート:Mboxテンプレート:Infobox 扶餘郡(プヨぐん、ふよぐん)は、大韓民国忠清南道の郡である。百済最後の都・泗沘があった。過疎化で若干減少気味となっている。1邑(町)15面(村)からなる。郡庁所在地は扶餘邑。
地理
忠清南道西南部、錦江(白馬江)流域に位置し、北は忠清南道青陽郡、公州市、東は論山市、南は錦江を隔てて全羅北道益山市と接する。西は海に近い忠清南道保寧市と舒川郡となる。
行政区域は扶餘邑と窮岩面、恩山面、外山面、内山面、九竜面、鴻山面、玉山面、南面、忠化面、良化面、林川面、場岩面、世道面、石城面、草村面に分かれる。
歴史
538年から660年まで6王123年にわたって百済王国の都であった泗沘の地である。統一新羅、高麗時代には扶餘県となり、李氏朝鮮時代には林川郡の下に扶餘県、鴻山県、石城県が設置された。
1895年に県は郡に変更、1914年3郡は扶餘郡に統合(16面)され、1960年扶餘面が邑に昇格した。
- 1914年4月1日 - 郡面併合により、扶餘郡・林川郡・鴻山郡および石城郡の一部・公州郡の一部(半灘面)が合併し、扶餘郡が発足。扶餘郡に以下の面が成立(16面)。
- 県内面・窺岩面・恩山面・外山面・内山面・九龍面・鴻山面・玉山面・南面・忠化面・良花面・林川面・場岩面・世道面・石城面・草村面
- 1917年10月1日 - 県内面が扶餘面に改称(16面)。
- 1960年1月1日 - 扶餘面が扶餘邑に昇格(1邑15面)。
行政
- 郡守:金茂煥
警察
消防
観光
- 国立扶餘博物館 - 1945年国立博物館扶餘分館設置、1971年新館開館、1975年国立扶餘博物館に昇格、1993年金城山に移転。
- 扶蘇山 - 海抜94メートル、百済時代の扶蘇山城があった。
- 王宮址 - 扶蘇山南側一帯とされる。
- 定林寺址 - 王都時代の中心的寺院。国宝の五層石塔が今も残る。中国南朝の梁は541年に仏典や画家などを百済に送ったとの記録があり、梁からの技術者が新しい都にふさわしい施設として造ったと考えられている。
- 落花岩 - 百済滅亡時、宮女たちが投身したという伝説がある。
- 百済文化祭 - かつて百済の都であった扶餘と公州が交代で毎年10月6日から9日まで開催する。
交通
バス
- 扶餘バスターミナル
- 高速バスはない。市外バスはソウル南部市外バスターミナルから40分間隔で運行し、所要時間は2時間。大田から(論山経由)は15~40分間隔で所要時間1時間30分。