ミケーレ・アルボレート
テンプレート:Infobox ミケーレ・アルボレート(Michele Alboreto、1956年12月23日 - 2001年4月25日)は、イタリアミラノ出身のレーシングドライバー。F1やル・マン24時間レースなどで活躍した。
目次
経歴
F1デビュー前
1978年にイタリアF3に参戦を開始。1980年ヨーロッパF3でチャンピオンを獲得。
ティレル時代
ティレルよりF1デビュー。この年はノーポイントに終わった。
第2戦ブラジルGPで4位に入り、初入賞。続くアメリカ西GPでも4位に入ると、第4戦サンマリノGPでは3位入賞、3戦連続のポイント獲得と共に初表彰台を達成した。その後何度かの入賞を経て、最終戦ラスベガスGPでF1初優勝を飾った。
第7戦デトロイトGPで優勝し2勝目。この勝利は、フォード・コスワース・DFVエンジン(スペックは進化バージョンのDFYエンジン)の最後の勝利(通算155勝目)であるとともにティレル最後の勝利(通算23勝目)でもある。これを含め入賞は2回、リタイヤは15戦中8回という不本意とも言える結果だったが、ターボ化の波に乗り遅れ、資金面でも貧弱なティレルでの活躍は高く評価された。そしてエンツォ・フェラーリに才能を認められ、フェラーリへ移籍。久々のイタリア人フェラーリドライバー誕生に、地元の期待は高まった。
フェラーリ時代
チームのエースドライバーとして加入したアルボレートは、第3戦のベルギーGPで初のポールポジションを獲得、決勝でも独走での優勝を飾る。この年は16戦中8回のリタイヤを喫すが、6度の入賞を記録し、選手権4位となった。この活躍により、往年の名ドライバーアルベルト・アスカリの再来と呼ばれ、ティフォシ達の人気者になった。
マクラーレンのアラン・プロストとチャンピオン争いを繰り広げ、F1生活でのハイライトと言われる年となった。アルボレートは第9戦ドイツGPでシーズン2勝目を挙げ、ランキングトップに立つが、第11戦オランダGPにてプロストに逆転を許した。その後アルボレートは、それまで2度のリタイアを除いて全てのレースで表彰台と安定していた成績が突然乱れ、最終戦まで5戦連続ノーポイントに終わった(リタイア4回)。結局この終盤での失速が響き、ランキングは2位に留まった。
チームが低迷期に入り、1986年は入賞4回、2位表彰台が1回。ランキングでもチームメイトのステファン・ヨハンソンを下回る8位に終わった。
前年同様苦しいシーズンとなり、完走すれば表彰台・入賞というケースが多かったものの、マシンの熟成不足もあって中盤の8戦連続リタイヤを含む10度のリタイヤを喫した。終盤に2連勝したチームメイトゲルハルト・ベルガーの台頭により、徐々にエースドライバーの座から追いやられる格好となる。
マクラーレン・ホンダの圧倒的な強さに歯が立たず。イタリアGPでベルガーに次ぐ2位に入りフェラーリのモンツァでの1-2フィニッシュに貢献する。
しかしアルボレートはデザイナーのジョン・バーナードとの対立が深刻化(セミオートマチックトランスミッションをめぐってバーナードと大喧嘩した、と自身で語っている)。チームはナイジェル・マンセルと契約。アルボレートはこの年限りでフェラーリを離れた。
ティレルへの復帰 ラルースへのスポット参戦
古巣のティレルに6年ぶりに復帰する。しかし契約金等はなく、マールボロからの支援と獲得賞金の何パーセントかが手に入るだけだった。この年ティレルはハーベイ・ポスルスウェイトの手による非力ながらも洗練されたマシン、ティレル・018を使用。モナコGPで5位入賞、メキシコGPでは3位表彰台を射止めた。
このころ、ジョニー・ハーバートの解雇を考えていたベネトンから移籍の誘いを受ける。しかしベネトン側が資金の持ち込みを要求したことから交渉が難航。そのうちにベネトンとの交渉の話が外部に洩れたことからケン・ティレルは代わりのドライバーとしてジャン・アレジを確保、ベネトンもエマニュエーレ・ピロと契約したことからシートを失ってしまう[1]。
この年は、その後2戦欠場を経てラルースから参戦するが、完走は1回。4回のリタイヤを喫し、ラスト3戦は決勝に進むことができなかった。
フットワーク時代
中堅チームのアロウズに移籍するが、ポイントは獲得ならず。
ポルシェのワークスエンジンを獲得し、活躍に期待が掛けられたが、このエンジンは競争力に欠け苦戦を続けた。シーズン途中でポルシェエンジンを諦め、DFRにエンジンが変更された。アルボレートは2度の完走を記録したに留まり、無得点に終わった。
チームは無限ホンダエンジンを搭載、僚友の鈴木亜久里がリタイアや予選落ちを繰り返す中、全16戦中14戦を完走し、4度の入賞。前年の最終戦から12戦連続の完走も達成した。7位完走が16戦中6回などあと一歩で入賞を逃すレースも多かったものの、この年最も多くの周回数をこなしたF1ドライバーとなった。シーズン終了後、チームは当時チームオーナーの大橋渡の後押しがある亜久里を残留させ、成績の良かったアルボレートの方を放出した。
ローラ、ミナルディ時代、引退
前年の活躍がありスクーデリア・イタリアのシートを確保した。しかしこの年にスイッチしたローラ製シャシーは予選通過にも苦しむ戦闘力であり、フェラーリエンジンとのマッチングも最悪。本家も絶不振ではカスタマーエンジンには多くは望めず予選落ち5回を喫し入賞は一度もなかった。終盤には、2戦を残しチームが撤退した。
ベネトンからの参戦をもくろんで開幕前のテスト走行に参加し好タイムを残していたがあと一歩のところでシート獲得がかなわず、結局ミナルディから参戦することになった。第4戦モナコGPではサバイバルレースを生き残り、6位入賞を果たす。しかし、その後はやはりチーム状況から目立った活躍は出来ず、この年をもってF1からの引退を発表した。
事故死
その後はインディやル・マンなどに活躍の場を移し、1997年ル・マン24時間耐久レースで優勝した。しかし2001年、ドイツのラウジッツリンクにてル・マン24時間耐久レースのために行っていたアウディ・R8のテスト走行中にタイヤがバーストしクラッシュ。即死であったという[2][3]。44歳没。
F1での年度別成績
年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | ティレル | 010 | USW |
BRA |
ARG |
SMR Ret |
BEL 12 |
MON Ret |
ESP DNQ |
FRA 16 |
GBR Ret |
GER DNQ |
AUT Ret |
27位 | 0 | |||||
011 | NED 9 |
ITA Ret |
CAN 11 |
CPL 13 | ||||||||||||||||
1982年 | RSA 7 |
BRA 4 |
USW 4 |
SMR 3 |
BEL Ret |
MON 10 |
DET Ret |
CAN Ret |
NED 7 |
GBR NC |
FRA 6 |
GER 4 |
AUT Ret |
SUI 7 |
ITA 5 |
CPL 1 |
8位 | 25 | ||
1983年 | BRA Ret |
USW 9 |
FRA 8 |
SMR Ret |
MON Ret |
BEL 14 |
DET 1 |
CAN 8 |
GBR 13 |
GER Ret |
AUT Ret |
12位 | 10 | |||||||
012 | NED 6 |
ITA Ret |
EUR Ret |
RSA Ret | ||||||||||||||||
1984年 | フェラーリ | 126C4 | BRA Ret |
RSA 11 |
BEL 1 |
SMR Ret |
FRA Ret |
MON 6テンプレート:Smallsup |
CAN Ret |
DET Ret |
USA Ret |
GBR 5 |
GER Ret |
AUT 3 |
NED Ret |
ITA 2 |
EUR 2 |
POR 4 |
4位 | 30.5 |
1985年 | 156/85 | BRA 2 |
POR 2 |
SMR Ret |
MON 2 |
CAN 1 |
DET 3 |
FRA Ret |
GBR 2 |
GER 1 |
AUT 3 |
NED 4 |
ITA 13 |
BEL Ret |
EUR Ret |
RSA Ret |
AUS Ret |
2位 | 53 | |
1986年 | F186 | BRA Ret |
ESP Ret |
SMR 10 |
MON Ret |
BEL 4 |
CAN 8 |
DET 4 |
FRA 8 |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN Ret |
AUT 2 |
ITA Ret |
POR 5 |
MEX Ret |
AUS Ret |
9位 | 14 | |
1987年 | F187 | BRA 8 |
SMR 3 |
BEL Ret |
MON 3 |
DET Ret |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN Ret |
AUT Ret |
ITA Ret |
POR Ret |
ESP 15 |
MEX Ret |
JPN 4 |
AUS 2 |
7位 | 17 | |
1988年 | F187/88C | BRA 5 |
SMR 18 |
MON 3 |
MEX 4 |
CAN Ret |
DET Ret |
FRA 3 |
GBR 17 |
GER 4 |
HUN Ret |
BEL Ret |
ITA 2 |
POR 5 |
ESP Ret |
JPN 11 |
AUS Ret |
5位 | 24 | |
1989年 | ティレル | 017 | BRA 10 |
13位 | 6 | |||||||||||||||
018 | SMR DNQ |
MON 5 |
MEX 3 |
USA Ret |
CAN Ret |
FRA |
GBR |
|||||||||||||
ラルース | ローラ LC89 | GER Ret |
HUN Ret |
BEL Ret |
ITA Ret |
POR 11 |
ESP DNPQ |
JPN DNQ |
AUS DNPQ | |||||||||||
1990年 | アロウズ | A11B | USA 10 |
BRA Ret |
SMR DNQ |
MON DNQ |
CAN Ret |
MEX 17 |
FRA 10 |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN 12 |
BEL 13 |
ITA 12 |
POR 9 |
ESP 10 |
JPN Ret |
AUS DNQ |
24位 | 0 |
1991年 | フットワーク | A11C | USA Ret |
BRA DNQ |
SMR DNQ |
35位 | 0 | |||||||||||||
FA12 | MON Ret |
CAN Ret |
MEX Ret |
|||||||||||||||||
FA12C | FRA Ret |
GBR Ret |
GER DNQ |
HUN DNQ |
BEL DNPQ |
ITA DNQ |
POR 15 |
ESP Ret |
JPN DNQ |
AUS 13 | ||||||||||
1992年 | FA13 | RSA 10 |
MEX 13 |
BRA 6 |
ESP 5 |
SMR 5 |
MON 7 |
CAN 7 |
FRA 7 |
GBR 7 |
GER 9 |
HUN 7 |
BEL Ret |
ITA 7 |
POR 6 |
JPN 15 |
AUS Ret |
10位 | 6 | |
1993年 | スクーデリア・イタリア | ローラ T93/30 | RSA Ret |
BRA 11 |
EUR 11 |
SMR DNQ |
ESP DNQ |
MON Ret |
CAN DNQ |
FRA DNQ |
GBR DNQ |
GER 16 |
HUN Ret |
BEL 14 |
ITA Ret |
POR Ret |
JPN |
AUS |
29位 | 0 |
1994年 | ミナルディ | M193B | BRA Ret |
PAC Ret |
SMR Ret |
MON 6 |
ESP Ret |
25位 | 1 | |||||||||||
M194 | CAN 11 |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN 7 |
BEL 9 |
ITA Ret |
POR 13 |
EUR 14 |
JPN Ret |
AUS Ret |
- 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ (key)。テンプレート:Smallsupはハーフポイント。
エピソード
フォルツァ・ミケーレ!
イタリア人ファンにとっては「イタリア人が運転するフェラーリが優勝する事」が唯一最大の願いであり、そのファンの中でもミケーレはイタリア人ファンに愛された。これにはミケーレの不運な境遇、超一流のドライビングテクニックに対する同情・賞賛がある。そのため、イタリア国内で行われるF1グランプリにはティフォシと呼ばれるフェラーリ熱狂支持者が多数訪れるが、そのティフォシ達が絶叫する言葉は常に「フォルツァ・ミケーレ!(ミケーレ頑張れ!)」であったと言われている。
テクニック
F1カーがまだマニュアルトランスミッションを採用していた頃、テンプレート:要出典範囲。F1ドライバーとして自身がもっとも脂がのっていた時期とフェラーリの低迷期が重なってしまい、成績そのものはさえなかったが、ドライビングテクニックを評価する声は多かったテンプレート:誰。
ヘルメットカラー
愛用のヘルメットは青地に太い黄色の一本輪で、尊敬していたF1ドライバー、ロニー・ピーターソンのヘルメットカラーをモチーフにしたデザインだった。また、ピーターソンと同様にヒサシ付のヘルメットを使用していた時期もあった。
2代目フライング・ミラン(空飛ぶミラノ人)
1984年の活躍により、「アルベルト・アスカリの再来」と呼ばれ一躍人気者になったアルボレートだが、その彼もアスカリ同様、出身地がミラノであることから、アスカリと同じく「フライング・ミラン」とニックネームを付けられた。 余談だが、これまたアスカリ同様アルボレートも典型的な先行逃げ切り型タイプであり、1度トップに立つ(またはポールポジションを獲得する)とその後はその座を守り続けて優勝というパターンが多かった。
趣味
趣味は、「F1をドライブすること」と公言し、低迷するチーム状況などで不遇にあっても走り続けた。そんな中でも明るさは失わず、ローラがインディで好走しても自身がドライブするF1で低迷する状況をして、「僕はもう、インディドライバーと呼ばれているよ」と、ジョークを言っていた。
エンツォからの寵愛
フェラーリ入りを決めたのは、自身がイタリア人であることだけでなく、エンツォ・フェラーリから寵愛を受けたことだという。事実、エンツォは、妻と子どもの居たアルボレートに、4シータ-にカスタムしたフェラーリの市販車をプレゼントしたという。しかし、エンツォの死後、成績も低迷していたアルボレートは後ろ盾を失い、チームから放出される憂き目に遭うこととなった。
死してなお・・・
フェラーリを去った後も「コマンダトーレの寵愛を受けた最後のドライバー」として、ティフォシ達に敬愛、尊敬されていたミケーレ・アルボレートが、アウディのル・マン24時間レース事前テスト中に事故死した後、事故後に行われたF1グランプリのスタンドで、その死を悼んだティフォシによって喪章を付けたカバリーノ・ランパンテのフラッグを掲げ、ミケーレコールが行われた。
脚注
- ↑ 「ミケーレ・アルボレートの告白」、『Racing On No.058』、1989年。
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関連項目
テンプレート:ティレル テンプレート:スクーデリア・フェラーリ テンプレート:ラルース テンプレート:アロウズ テンプレート:スクーデリア・イタリア テンプレート:ミナルディ