中根雪江
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中根 雪江(なかね ゆきえ(せっこう)、文化4年7月1日(1807年8月4日) - 明治10年(1877年)10月3日)は、江戸時代末期(幕末)の福井藩士、明治の政治家。通称は栄太郎、靱負(ゆきえ)。靱負を雪江とも書き、さらに「せっこう」と音読みした。
生涯
文化4年(1807年)、福井藩士(700石取り)・中根衆諧の長男として越前国福井の城下に生まれる。
天保元年(1830年)、家督を継ぎ、藩の儒学者に学ぶ。江戸に赴いて平田篤胤から国学を学んだ。天保9年(1838年)に松平慶永(春嶽)が藩主に就任すると御用掛となり、橋本左内らとともに藩政改革に参与する。
江戸幕府の幕政に進出した慶永の参謀となり、嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めると、攘夷論者であった慶永に開国論を進言する。安政の大獄によって慶永が隠居させられると同時に失脚するが、慶永が政界復帰して政事総裁職になると、横井小楠らと公武合体政策に従事し、将軍・徳川家茂の上洛に運動。万延元年(1860年)からは著作活動に専念し、慶永らの政治活動を著わした『昨夢紀事』を記している。
王政復古で成立した明治新政府の参与として出仕するが、翌年に免職。福井で隠居し、『再夢紀事・丁卯日記』『戊辰日記』など著作活動を行った。
明治10年(1877年)、71歳で死去。墓所は東京都品川区の海晏寺。