鰊御殿
鰊御殿(にしんごてん)は、第二次世界大戦前に、北海道の日本海側に建てられた、網元の居宅兼漁業施設(番屋)の俗称である。
概説
第二次世界大戦前、とりわけ大戦景気までの時期に、北海道の日本海沿岸で隆盛を極めたニシン漁で財を成した網元達が、競って造った木造建築物である。「鰊御殿」の定義は未だ不詳であり、大戦景気頃までにかけて建築された網元の家屋程度の目安で、「鰊御殿」として紹介されている。かつてニシン場の古老達は、上座敷には違い棚、床柱には黒檀を使用していることが条件のように話していたが、その定義に合致するものはごく少数であり、ほとんどの建築物は現在解体されている。また、必ずしも望楼を備えているとも限定できない。様式は古くは平屋形式であり、屋根は瓦葺きである。
御殿と称されたのは、内部に本州から移入された檜や木目の美しいケヤキ・タモ材などを使用し、廊下等には生漆を施し、欄間を備えた建築物であることによる。また、厳密には番屋とニシン御殿は異なる建造物であり、資金や建築面積の関係から、中には折衷型の物もある。本来は同じ敷地内に、主人家族と女中などの奉公人のみ居住する建物がある。ヤン衆と呼ばれる漁の季節のみ従事する労働者も鰊御殿に入れられたが、主人家族とは別棟に泊まるのが常であった。
特徴
当時の北海道においては、図抜けて豪華な木造建築物である。1890年代から1900年代のものは建築主の希望により和洋折衷の様式を取り入れているものもあり、流行に敏感な一流の棟梁を招聘して造らせたことが窺える。鰊御殿の棟梁は家族と共に来道し、小屋を建て数年に及ぶ工事に従事したと伝えられている。初期の建築物は、平屋建てで、度量は鯨尺と称されるものを使っている。女中部屋は台所から目隠しされた階段を上り、ごく低い天井の六畳間が当てられている。この女中部屋の形式は、ほとんどの鰊御殿が踏襲している。1階建てであるが、豪雪地帯であるからか、梁や桁は十二分に重さに耐えられるよう無駄に見えるほど材木を使っている。天井裏は、現在の建築と異なり、屋根裏との距離は無意味と思われるほど離れている。それは、軒先が雪を防ぐために一間ほど張り出していることと、重い軒瓦が載っていることなどから、軒材を屋根裏深く入れる必要性を感じたものと思われる。(外観は2-3階建てに匹敵する軒高である)。
しかし、次第に実用性を重視し、以下のような構造が増えたものと考えられる。次第に内部は多層構造となり、1階は網元の居宅やニシンの加工場が置かれ、特に加工場は臭いの関係から邸宅から離れた場所に置かれたり、主人とは別の人間が加工場を経営することが多かった。2階 - 3階部分はヤン衆の宿泊施設、ニシンの見張り台となっていることが多い。望楼建築は大戦景気で流行し、当初は存在しなかったものと想定される。望楼は一種の意匠と思われる。
国の史跡「旧下ヨイチ運上家」は、廃藩置県後は運上屋の役目が終わり、廃藩置県から1956年前後まで番屋として転用されていたが、1979年に創建時の姿に復元されたことにより、番屋の姿を現在は伝えていない。
公開されている鰊御殿
複数の鰊御殿が文化財や商業施設として復元されている。( )内は現在の施設名。
- 旧 田中福松邸(小樽市鰊御殿):小樽市祝津3丁目
- 旧 猪俣安之丞邸(銀鱗荘):小樽市[1][2][3]名実共に鰊御殿としての風格を現在に伝えている唯一の遺構。
- 旧 青山留吉邸(旧青山本邸):山形県飽海郡遊佐町比子字青塚 (※厳密には鰊御殿ではない)
- 旧 青山政吉邸(小樽貴賓館 にしん御殿 旧青山別邸):小樽市祝津3丁目 別邸と称されるように建築当初は隠居用であった。商業施設となってから知られるようになった。桑材を一部使用しており他に類例がない。
- 旧 青山家住宅(旧青山家漁家住宅):札幌市厚別区(北海道開拓の村)
- 旧 川村慶次郎、武井忠吉邸(鰊御殿とまり):古宇郡泊村
- 旧 白鳥家住宅(はまます郷土資料館):石狩市浜益区
- 旧 白鳥家番屋(群来陣):小樽市祝津3丁目
- 旧 花田家番屋 :留萌郡小平町 - 近接して道の駅が整備されている(道の駅おびら鰊番屋)。
- 旧 橋本与作邸(お宿 鰊御殿):寿都郡寿都町橋本家は商家であり厳密には鰊御殿ではない。