北海道小樽潮陵高等学校
北海道小樽潮陵高等学校(ほっかいどうおたるちょうりょうこうとうがっこう、Hokkaido Otaru Choryo High school)は、北海道小樽市にある公立(道立)の高等学校。
目次
沿革
- 1902年3月27日 - 北海道庁立小樽中学校として設立が認可される。
- 1902年4月25日 - 開校。
- 1902年5月15日 - 初の入学式。(この日を開校記念日としている)
- 1903年1月29日 - 開校式。
- 1920年2月11日 - 校歌制定。
- 1948年4月1日 - 校名を北海道立小樽高等学校に変更。私立潮陵中学を統合。
- 1950年4月1日 - 校名を北海道小樽潮陵高等学校に変更。
- 1952年9月23日 - 創立50周年記念式典。
- 1956年11月13日 - 失火により校舎の3分の2を焼失。
- 1972年11月10日 - 制服制度を廃止。従来の制服は標準服とする。
- 1980年12月26日 - 現校舎完成。
- 2002年10月12日 - 創立100周年記念式典。
- 2012年10月27日 - 創立110周年記念式典。
概要・特色
函館中(現北海道函館中部高等学校)、札幌一中(現北海道札幌南高等学校)に次いで道内三番目に設立された旧制小樽中を前身とする、古い歴史をもつ公立高等学校である。自由な校風が特徴とされる。北海道内では「潮陵(ちょうりょう)」の名で知られている。
校歌
OBである作家・評論家、伊藤整の自伝的小説「若い詩人の肖像」によれば、開校20周年の記念祭の前に、当時の校長が新進小説家として知られていた卒業生の岡田三郎に作詞を依頼し、卒業直前にできた校歌を体操の教師の弾くオルガンで練習したとの記述がある。ヘ長調のゆったりとした曲調。歌詞の一節「鳳(ほう)高校の高き誉れ」は、日本有数の港として栄えた小樽港の埠頭の形を模した表現であり、鳳凰、「鳳(おおとり)」は潮陵の象徴的存在である。また、三番の歌詞は潮陵生の進路を航海に例え、暴風や波涛を超えて対岸のシベリアに向かうという表現がある。近年、記念館の手前に歌碑が建立された(写真)。 ※歌詞全文は公式サイトを参照
暁鐘
校歌にも登場する屋上の鐘。以前のこげ茶色から塗り替えられ、現在は明るい茶色となっている。毎日午前8時5分と午後5時25分頃に校歌のメロディを奏でる。PTA広報誌の名称も「暁鐘」である。 暁の鐘
学区
学区内の人口が減少傾向にあることから近年募集間口が減らされており、2005年度からは一学年7クラス(280名)となっている。
北海道では一つの学区が非常に広くなっており、学区内最大の高等学校である潮陵には後志管内全域にわたる広範な学区から生徒が集まるが、現状では9割近くが小樽市と余市町出身の生徒で占められている。市内の生徒の多くは市内バスで通学する。最寄りのバス停は、中央バス「龍徳寺前」。
入学試験は道立高等学校の統一入試を利用している。テンプレート:要出典範囲
授業
週5日、45分を1時間として7時間授業を行っている。2年次から文系・理系・医進類型の3つに分かれたカリキュラムが組まれている。2006年に全国的に発覚した高等学校の特定科目未履修問題に際しては、潮陵高校も情報、理科総合の授業数が足りなかったことや、現代社会を政治経済の教科書に切り替えて授業をしていたことなどが明らかとなった。
「文武両道」を重要な校訓のひとつとする潮陵では体育も重視されている。週3時間のうち1時間は、男子では柔道、女子ではテニス(夏のみ)に充てられている。かつては男女とも、1年次にオリジナル体操「潮陵体操」が取り上げられた。女子では、現在でも2年次にグループごとに体系を変えて創作し、3年次にはその軽快な付随音楽が創作ダンスのBGMとしても使われている。男子は倒立前転を伴う箇所も見られるなどやや難易度が高い様式となっていたが、なにしろ1年次にしか扱わないため誰一人として卒業まで覚えていた生徒はいなかったのではないかと思われる。
また地元の進学校であるため、学校説明会などでは「試験が多い」と説明されることがある。定期考査(数日間)は年4回(2012年度より削減)、また長期休み明けには必ず校内実力考査(主要教科のみ、2日間)がある。
服装
1972年11月10日、制服制度を廃止し、従来の制服は標準服とされたが、現在その標準服は消滅している。制服廃止の前後には、服装自由化を求める生徒による「制帽焼き打ち事件」があり有名なエピソードとしてかつて生徒会誌でも取り上げられた。
指定の「潮陵ジャージ」は学年ごとに赤(小豆色)・青・緑の三色が繰り返されている。上靴のラインの色もジャージの色に併せて三年で一巡する。
生徒会
立候補と投票によって三役その他の役員が決められるが、選挙活動があまりに静かであり、役員の人数も流動的であるため、選挙はやや形骸化したものになっている。生徒会誌「鳳(おおとり)」が年1回発行され、クラス紹介、クラブ紹介などが掲載される。
平成25年度後期現在、生徒会執行部は非所属の手伝い含め10人前後で活動中である。
部活動
2008年3月現在、20の運動部、10の文化部、4の外局、4の同好会が活動しており、加入率は高い。
全国的な強豪である放送局は1996年と2006年に、NHK杯全国高校放送コンテストの創作テレビドラマ部門(番組名「熱血超人カイザーマン」)とテレビドキュメント部門(同「なまら重くね!?」)でそれぞれ全国優勝を果たし、2007年にも同大会テレビドキュメント部門の優良賞を受賞した(同「だって好きなんだもん」)。また、吹奏楽局、音楽部は、毎年秋に地元の小樽市民会館、小樽市民センター(マリンホール)などを会場に定期演奏会を開催し、市民に親しまれている。
運動部ではボート部が小樽中時代からの古豪として知られ、ラグビー部も7人制全国大会出場歴がある。 硬式野球部は2014年に地区大会で前年度優勝校の北照を7回コールドで下し、同年の南北海道大会では準優勝を経験している(決勝では東海大四に0-1で惜敗)[1]。
記念館
校舎に隣接して高校の様々な資料を展示する記念館が設けられている。茶色のレンガと八角形の平面が印象的な建物で、演劇部の稽古場として使われるほか、軽音楽部やクラシックのミニコンサートが催される。
購買・食堂
校内の購買では、地元のパン屋の商品や飲み物、文房具などを買うことができる。食堂は定時制専用。また、昼休みには近所の商店などへ行くことが認められている。
行事
3年生の受験準備を考慮し、8月の終わりまでに行事が集中している。
潮陵祭
7月の第3週の週末あたりに開催される最大の行事。期間は3日間で、準備期間も含めて期間中はそれぞれのクラスがまとまり、学校全体が活気に満ちあふれる。期間中はクラスTシャツや潮陵祭オリジナルTシャツを着ている生徒が多く見られる。
- 仮装行列
- クラスごとにテーマを決め、山車をつくり、全員が仮装し校庭にて決起集会(ダンス2分)を行う。
- その後小樽市街を練り歩き、商店街でパフォーマンス(ダンス2分)を披露する。
- 準備期間中にパフォーマンス練習が行われるが、衣装作りやクラス企画などと平行して行う時間が足りないため、下校時間1時間前に校舎周りで練習する。その後に練習を行うことは原則禁止とされている。
- ステージ企画
- 体育館では、オープニングセレモニー・有志芸能・のど自慢(予選)が行われ、のど自慢に関しては後夜祭でグラウンドにて決勝が行われる。2階の光庭では『天下一武会』という有志のお笑い対決が行われる。
- クラス企画
- 食堂(焼き物・麺類・甘味・煮汁の4クラス)・映画・バラエティの三部門から各クラス一部門を選んで行われる。一般市民の入場者も多い。クラス毎に部門の希望を出し抽選が行われるが、食堂部門は仕入れ等の関係で3年生が優先される。
- クラブ企画
- 化学部の化学ショー(ラムネ作り教室が有名)、地学部のプラネタリウム、書道部・美術部・写真部の作品展示、文芸部・漫画研究同好会の部誌発行などが期間中にあわせて行われる。
- 後夜祭
- 最終日の夜に行われ、殆どの生徒が参加すると言われる。校庭の中央に設置された大型キャンプファイヤーへの点火方法は色々と工夫が凝らされている。参加生徒はテーマ曲を歌うなどして盛り上がり、打ち上げ花火で盛大に幕を閉じる。
遠足
6月の初めに行われ、学年ごとに行き先が決まっているがほとんど小樽市内で行われる。
球技大会
年度内に2度あり、夏季は7月初めに、冬季は3年生が卒業した後の3月に行われる。
体育祭
8月末、二学期が始まってすぐにある実力テスト期間の直後に行われる。
見学旅行
10月の始めに行われ、2年生で関西へ行く。3泊4日と周辺の公立高校より一泊短い。
卒業生組織
卒業生の組織として、潮陵倶楽部、東京潮陵樽中会がある。潮陵倶楽部から機関誌『潮陵』が発行されており、小樽市内の書店でも店頭で入手できる。
著名な出身者
- 学者
- 政治家
- 官僚
- 経済人
- 文化/芸能
- 放送
- 野球
- スキージャンプ
- 伴素彦(サンモリッツオリンピック代表)
- 宮嶋巌 (ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック代表、1972年札幌冬季オリンピックジャンプ審判長)
- 安達五郎(レークプラシッドオリンピック、ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック代表)
- 伊黒正次(ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック代表)
- 龍田峻次(ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック代表)
- 吉沢広司(オスロ・コルティナダンペッツォオリンピック代表)
- 佐藤耕一(コルティナダンペッツォ・スコーバレーオリンピック代表)
- 松井孝(スコーバレーオリンピック代表)
- 板垣宏志(グルノーブル・札幌、インスブルックオリンピック代表)
※周りを山に囲まれた旧制小樽中は、大正期から昭和初期にかけて黎明期の日本ジャンプ界を牽引する存在であった。OBらが尽力してジャンプ台や合宿所を整備、1934年にはナイター設備を完成させ練習に励んだ。