天満橋
天満橋(てんまばし)は、大阪市の大川に架けられた橋および同市北区の地名、天満橋南詰周辺の地域名。
天満橋(橋梁)
天満橋(てんまばし)は、大川に架かる天満橋筋(大阪府道30号大阪和泉泉南線)の橋。難波橋、天神橋と共に浪華三大橋と称され、最も東(上流)に位置する。大阪市北区天満と大阪市中央区天満橋京町の間を結んでいる。
大阪では珍しい2階建ての橋になっており、上部は土佐堀通をまたぐ跨道橋になっている。天満橋南詰には天満橋交差点があり、ここより北を天満橋筋、南を谷町筋という。大阪市営地下鉄谷町線が天満橋の地下を通過している。
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天満橋(葛飾北斎)
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天満橋の夜景
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天満橋を南から望む
歴史
江戸時代には公儀橋に指定され、幕府により直轄管理されていた。
江戸時代を通じて架橋地点は現在地より一筋東であり、その北詰の筋が天満橋筋と呼ばれていた。1771年(明和8年)に寝屋川・鯰江川との合流地点の逆流を防止するために将棊島と呼ばれる堤防が築かれ、以降の天満橋は将棊島を跨ぐ橋となった。
1878年(明治11年)に新しい木橋が谷町筋と空心町筋(現在天満橋筋と呼ばれる筋)を結ぶ位置に架け替えられた。しかし、木橋は1885年(明治18年)の淀川大洪水により流失。復旧に際して鉄橋に架け替えられた。当時の主要材料にはドイツから輸入されたものが用いられたが、装飾品等には日本製のものが用いられた。鉄橋は50年近く続いたが、路面電車(大阪市電)の往来による揺れが問題化したため、1935年(昭和10年)に耐震構造をもった現在の橋に架け替えられた。この間、1909年(明治42年)の淀川改修工事によって将棊島が姿を消した。
1970年(昭和45年)に天満橋交差点(土佐堀通)の渋滞緩和のために跨道橋が建設されたが、北側はそのまま大川を越えて北岸で地上に下りる構造となった。大川上は在来の天満橋の橋脚上に柱を立てて橋桁を重ねる構造をとった。1989年(平成元年)に旧橋(下層)部が改装された。
現橋の要目
地名としての天満橋
大阪市北区の町名
1978年(昭和53年)、大阪市北区の住居表示実施に伴い誕生した町名。旧町名の空心町、新川崎町、天満橋筋がそれぞれ分割され、その一部が天満橋一丁目 - 三丁目となる。同時に1872年(明治5年)から続いた天満橋筋の町名が姿を消した。
天満橋(橋梁)からは相当離れており、源八橋西詰周辺にあたる。大阪アメニティパーク(OAP)があり、天満橋筋に面している。
天満橋南詰周辺の地域名
明治末期、大阪市電天満橋停留場、京阪電鉄天満橋駅が天満橋南詰に開業して以来、一般的に天満橋と言えば天満橋南詰周辺を指すようになった。
天満橋駅は長らく京阪本線の大阪側の起点であったが、1963年(昭和38年)に淀屋橋駅まで延伸された際に途中駅となり、同時に地下駅となって天満橋筋の西側へと移動した。現在地上駅の跡地には大阪マーチャンダイズ・マートビル(OMMビル)が立っている。同じく後発である京橋駅にも押されるなどして、ターミナルとしての地位低下が顕著であった時期が続いた。しかし、京阪中之島線の開通によって分岐駅となり、それに合わせた京阪シティモールや大阪市営バス天満橋バスターミナルなどの再開発事業によって、かつての賑わいを取り戻しつつある。
天満橋交差点西側は土佐堀通に沿って天満橋京町という町名になっているが、もとは京橋という町名であった。江戸時代から京橋という町名で、京街道沿いの町であったことに由来する。1989年(平成元年)に東区と南区とが合併して中央区が成立した際に、京橋一丁目が大手前一丁目に編入され、同二丁目が天満橋京町、同三丁目が北浜東に改称された。