橋田信介
テンプレート:Infobox 人物 橋田 信介(はしだ しんすけ、1942年(昭和17年)8月22日 - 2004年(平成16年)5月27日)は日本のジャーナリスト、報道写真家。
人物概要
山口県宇部市出身。宇部中央高等学校卒業後、郵便配達員として働きながら1970年(昭和45年)に法政大学第二法学部を卒業。同年日本電波ニュース社に入社し、カメラマンとして1972年(昭和47年)ベトナム、ハノイ特派員、1978年(昭和53年)バンコク支局長、1980年(昭和55年)ローマ支局長を歴任。ベトナム戦争時には空爆される地上側から取材をすることになる。
1988年(昭和63年)独立してフリーとなり、バンコクを拠点に主にアジアの戦争報道を手がける。湾岸戦争ではCNNや『ニューヨークタイムズ』にスクープ報道を提供する。カンボジア内戦、ビルマ動乱、パレスチナ内戦、アフガン戦争、ボスニア内戦なども取材し、日本の戦場ジャーナリストのトップランナーとして動いてきた。
2003年(平成15年)に山口東京理科大学にて講義し、戦場での体験を生徒に半年かけて伝えた後イラクに戻る。2004年(平成16年)5月27日、イラク戦争取材中にバグダード付近のマハムーディーヤで襲撃を受け、同行していた甥の小川功太郎(当時33歳)とともに殺害される。テンプレート:没年齢。
エピソード
アメリカのイラク攻撃に対しては批判的な態度であり、それに伴う自衛隊のイラク派遣に対しても隊員たちの努力は評価しながらも、アメリカ追随とも言える派遣の判断を下した日本政府に対しては批判的にならざるを得ない、と苦しい胸のうちを『朝まで生テレビ』出演を通じて知り合った小林よしのりらにこぼしていた。このことは、後に小林が編集長をつとめる『わしズム』に絶筆となるコラム(小林としてはシリーズ連載の第1回のつもりでいた)を寄稿するきっかけになった。
イラクで知り合った戦争で目を怪我した少年の治療をうけられるよう尽力しており、少年は橋田の死後、同年6月に来日し静岡県沼津市の病院で治療を受けることができた。この為か、橋田らを殺害した犯人グループに対する非難がイラク国内からも沸き起こり、グループが謝罪声明を出すに至った。
死の直前、イラクのバスドライバーが「ムシケーラ(アラビア語で「困った」の意)」と言っていたことをもじって、「車を停めるとアメリカ軍に撃たれ「ムシケーラ(虫けら)」になる」と冗談交じりのメールを二木啓孝に送信している。
カメラマンの宮嶋茂樹に関して、「私が不肖・宮嶋の上官である」と宣言していた。
自衛隊がイラクで水の供給をしていることについて取材し、実際にはサマーワ近辺では水の入手はさほど困難でないこと、フランスのNPOが自衛隊の何倍もの量の水を供給していることをテレビで報告した。
サマーワの自衛隊駐屯地に立入許可証を受け取りに行き、殺害されたのはバグダートに戻る道中だった。
著書
- 『走る馬から花を見る-東南アジア取材交友記』(1993年・新潮社)
- 『戦場特派員』(2001年・実業之日本社)
- 『イラクの中心で、バカとさけぶ』(2004年・アスコム)
- 『戦場の黄色いタンポポ』(2004年・新潮社)
- 『世界の戦場で、バカとさけぶ』(2004・アスコム)
- 鴨志田穣、西原理恵子『アジアパー伝』にキャラクター「ハシダさん」として登場。