弘明寺
弘明寺(ぐみょうじ)は、横浜市南区にある高野山真言宗の寺院。瑞應山蓮華院と号し、横浜市内最古の寺院である。 本尊の木造十一面観音立像(通称「弘明寺観音」)は、国の重要文化財。 寺名は駅名、町名などにも広く使われている。
寺名
鎌倉時代には「求明寺(ぐみょうじ)」と表されていた[1]。 その後、呉音で同じ「ぐ」と読む観音経偈文にある「弘誓深如海(ぐぜいじんにょかい)」の弘の字を当てて弘明寺に改めたといわれている。
概要
寺伝によると、721年(養老5年)にインドの僧・善無畏が当地に結界を創り、737年(天平9年)に行基が観音像を刻んで一宇を建立したと伝えられ、行基を以って開基としている。 弘仁年間(9世紀初期)には空海が双身歓喜天(弘明寺聖天)を彫刻し安置したという。 鎌倉時代には源将軍家累代の祈願所であった[1]。 戦国時代には北条早雲から寺領を、江戸時代には歴代将軍から朱印地を賜り、坂東三十三箇所観音霊場の十四番札所として信仰を集めた。
2004年(平成16年)、弘明寺が事務局となり「病苦研究会」という真言宗有志の団体が形成されている。 終末医療における、心理面のサポートに仏教思想を活かす為の試みである。
観音像など秘仏とはなっているが、内陣参拝で拝観できる。
境内
- かつては広い寺有地を有していたが、廃仏毀釈による公有地化で北側の大半(現・弘明寺公園)を横浜市に譲渡し、北側には湘南電気鉄道(現・京浜急行電鉄)弘明寺駅が開業、更に駅周辺では寺自身が民有化をすすめたことなどにより、寺有地は過去の約2割にすぎなくなっている。
- 本堂 - 1044年(寛徳元年)に、光慧上人が建立。当時の古材が床板として使われている。
- 四脚門 - 楓関門と呼ばれ、1411年(応永18年)の建立。横浜市内最古の門である。
- 仁王門 - 江戸時代に建てられたといわれている。
- 七つ石 - 善無畏が七つの盤石を埋めて結界を創ったと伝わる。霊石として信仰を集めている。
- 身代地蔵 - 京浜急行電鉄が2001年に奉納。
周辺
弘明寺から鎌倉街道まで、アーケードとなって「弘明寺商店街」として下町の賑わいを残す。レトロモダンな雰囲気を求めて、しばしばテレビ番組やCMのロケ地として使われている。 このアーケード街は、江戸時代に栄えた弘明寺の門前町と良く混同されるが、終戦後の闇市を起源とするものであり、同じものではない。江戸時代の弘明寺の門前町は、現在の蒔田付近である。
鎌倉街道への寺入口の門前街路の交差点の横浜国立大学工学部跡地に横浜国立大学附属横浜中学校と南警察署があり、横浜市交通局地下鉄の弘明寺駅が横浜市電の跡地に建設され、京急の駅と同名の称呼を使用している。 かつて、この地は市電の西の終点であり、鎌倉方面への路線バスと市電の乗り換えターミナルとして交通の要であった。 また、横浜国立大学工学部の学生街としても賑ったが、現在はそのターミナルは港南区の上大岡駅前に移り、かつての学生町・市電ターミナルとしての賑わいはない。
元々境内であった弘明寺公園と、弘明寺商店街のほぼ中央を横切る大岡川の両岸は横浜市有数の桜の名所となっている。
祭事・年中行事
- 5月下旬から9月上旬までの毎月「8」の付く日は観音、「3」の付く日は聖天の縁日となっており、さまざまな露天商が店を開き、遠方からも弘明寺参詣客とともに多くの庶民で往来はごった返す。
- 戦前から60年以上続けられてきた節分の豆まきが、警備員の指示に従わない来場者が増えたため、過去の事故[2]から群集事故の危険性があると寺側が判断した為に2008年を最後に中止となった。
文化財
- 木造十一面観音立像(弘明寺観音)
- 木造黒漆花瓶 二口
所在地・交通
神奈川県横浜市南区弘明寺町字山下267
鉄道
バス
- 横浜市営バス 弘明寺バス停(2系統・9系統・219系統)
- 江ノ電バス 弘明寺バス停(横浜線・栗木線)
- 神奈川中央交通 弘明寺バス停(206系統・60系統・港61系統・船20系統)、弘明寺口バス停(井10系統・井11系統・井12系統・井14系統・戸01系統・戸03系統・横43系統・横44系統・東01系統・東06系統)