ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)
初代チャタム伯ウィリアム・ピット(William Pitt, 1st Earl of Chatham, 1708年11月15日 - 1778年5月11日)は、イギリス・ホイッグ党の政治家、首相(在任:1766年7月30日 - 1768年10月14日)。通称大ピット。夫人ヘスター・グレンヴィル(リチャード・グレンヴィルの娘、首相を務めたジョージ・グレンヴィルの妹)との間に生まれた次男が小ピットである。19世紀にアラビアを旅したレディ・ヘスター・スタンホープは孫娘に当たる。
生涯
政界進出
ウェストミンスター生まれ。マドラスで知事をつとめたトマス・ピットは祖父にあたる。トマスは、フランスの摂政オルレアン公フィリップ2世にダイヤモンドを売りつけ、135,000ポンドの利益をあげたことで知られる。
オックスフォード大学のトリニティ・カレッジで学び、1735年議会入り。演説巧みでロバート・ウォルポールの平和外交政策を批判。国王ジョージ2世の長男であった王太子フレデリック・ルイスに共鳴し、急進的な商工業者グループ「青年愛国者」のリーダーとして活躍。1744年にマールバラ公ジョン・チャーチルの未亡人サラ・ジェニングスが亡くなると、彼女の遺言によりピットに1万ポンドと地所が遺贈された。サラはウォルポールを大変毛嫌いしており、ウォルポールの政敵のピットが彼に対して容赦ない攻撃をしていたのが遺贈の理由とされている。
1746年、オーストリア継承戦争の最中にヘンリー・ペラム政権下で軍事主計長官になり、ジャコバイトの反乱の処理、財政の整理と改革に尽力。1754年にジョージ2世と不和になり翌年に首相のニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズのハノーファー重視政策を批判して解任。植民地の情勢に明るく欧州大陸よりも植民地を重視するピットは、ハノーファーや欧州大陸しか関心をもたなかったジョージ2世とは大変仲が悪かった[1]。
大英帝国の建設へ
1756年に七年戦争が起こるとデヴォンシャー公ウィリアム・キャヴェンディッシュ内閣の実質的な指導者となるが、ハノーファー重視のジョージ2世と意見があわず、ニューカッスル派との対立から辞職。しかし偉大なる庶民と呼ばれるほどの強い世論の支持により復帰、今度はニューカッスル公と共同で政権を維持。国務大臣・外相として戦争を指導した。欧州大陸では同盟国のプロイセンに対して資金援助を中心にしてフランスとの戦争は深入りせずに北アメリカ大陸とインド等の植民地での対フランス戦争(フレンチ・インディアン戦争、カーナティック戦争)に兵力を集中。ジェームズ・ウルフ将軍やロバート・クライブの活躍もあり、これらの植民地でイギリスの決定的な勝利を導いた。
フランスとの植民地戦争にイギリスが勝利できたのはピット1人によってできたわけではない。戦争に必要な資金を議会の承認の下で何とか調達したニューカッスル公や海軍増強計画をやりぬきインドにフランスを圧倒する船隊を送ることに成功したジョージ・アンソン海軍卿(海軍大臣)らの存在は大きい。しかしピットは人の能力や才能を見出すことに優れていてウルフ将軍やアンソン卿も含めボスキャウェン、ホーク、ソンダースといった提督やジェフリー・アマーストのような将軍を能力本位で起用した。こうしたピットの指導力が戦争の勝利に大きく貢献したことは多くの歴史学者が認めるところである。こうして北アメリカ大陸やインドでフランスに勝利したことで、名誉革命以来長らく続いていたフランスとの植民地戦争に終止符を打った[2]。
ジョージ3世の治世下で
フランスの宰相ショワズールは植民地での敗北でスペインに協力を求め、ピットはスペインとの戦争を主張し、議会や1760年にジョージ2世の死後即位したジョージ3世及び側近のビュート伯ジョン・ステュアートと対立して1761年に下野。ジョージ3世とも仲が悪くピットのことを「反逆のラッパ」とあだ名したという。ピットの解任は「戦闘に2回勝利したほどの値打ち」とフランス人は言ったといわれている。この後スペインはイギリスに宣戦したが、逆にイギリスが強力な海軍力を持ってしてスペインの植民地であるハバナやマニラを占領。戦後のパリ条約でスペインがフロリダをイギリスに割譲する代わりにこれらの両地域はスペインに返還された。
七年戦争とフランスとの植民地戦争は、1763年のパリ条約で終結する。スペインやフランスに植民地を一つたりとも返還することを好まなかったピットはこの条約の批准に反対して、病身にもかかわらず議会で3時間にわたって熱弁をふるった。しかしピットの政敵フォックスが議員を買収するなどして圧倒的多数で条約は批准された。1766年に伯位を授与され下院から上院へ移り、野党活動を継続した。
持論はいわゆる「海洋派」であり、制海権確保を重視する姿勢をとっていた。制海権のための戦争遂行との位置づけから政府の戦争指導を批判する野党活動を展開したが、1766年にロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワースが首相を辞任した後を受けて王璽尚書(Lord Privy Seal)として事実上の首相についた時は痛風と鬱病を患っており、為すところはあまりなかった。さらに、ホイッグ党内部でもピット派・ロッキンガム派など多くの派閥に分裂、政権は始めから弱体であり、1768年に辞任してまたもや野党化した。それからは派閥の領袖として後任の首相となったグラフトン公オーガスタス・フィッツロイを攻撃、ジョン・ウィルクスの処遇を巡る争乱で他のホイッグ党派閥と結託してグラフトン公政権を崩壊、フレデリック・ノース政権とも衝突したが、同じ野党のロッキンガム派とも衝突してしまい1771年に派閥合同は解消、野党の弱体化で逆にノース政権は長期安定に入った。
1778年、アメリカ独立戦争の問題でノースから協力を要請されたが拒絶、ロッキンガム侯を弾劾する演説のさなか昏倒、まもなく世を去った[3]。
ジョージ3世は側近を中心とした専制的な政治を行った結果、アメリカの独立という大きな失敗を招いた。小ピットがアメリカ独立後の混乱した政治の後処理を始めたのは、父の死後5年後である。小ピットが政権についてからイギリスは再び「君臨すれども統治せず」という責任内閣制が復活するのであった。
家族
1754年、ヘスター・グレンヴィルと結婚、5人の子供が生まれた。
- ヘスター(1755年 - 1780年) - 第3代スタンホープ伯チャールズ・スタンホープと結婚、レディ・ヘスター・スタンホープの母。
- ジョン(1756年 - 1835年) - 第2代チャタム伯
- ウィリアム(1759年 - 1806年) - 首相
- ジェームズ・チャールズ(1761年 - 1781年)
- ハリエット(1770年 - 1786年) - エドワード・ジェームズ・エリオットと結婚
脚注
- ↑ 今井、P307、P312 - P313、小林(1999)、P57 - P63、友清、P397。
- ↑ 今井、P314 - P318、小林(1999)、P63 - P64。
- ↑ 今井、P321 - P322、P332 - P339、P347 - P348、小林(1999)、P65 - P66。
参考文献
- 今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』山川出版社、1990年。
- 小林章夫『イギリス名宰相物語』講談社現代新書、1999年。
- 小林幸雄『図説イングランド海軍の歴史』原書房、2007年。
- 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史』彩流社、2007年。
- 『英国王室スキャンダル史』ケネス・ベーカー、樋口幸子訳、森護監修、河出書房新社。
- 世界の歴史 8巻 『絶対君主と人民』大野真弓、中公文庫。
- "CHAMBERS BIOGRAPHICAL DICTIONARY" CENTENRY EDITION
関連項目
- ピッツバーグ - アメリカ合衆国ペンシルベニア州の都市。ピットにちなみ名付けられた。
- ピット島 - ピッツバーグと同様ピットにちなんだ島。
- ウィリアム・トマス・ベックフォード - 作家。ピットが名付け親。
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