福澤幸雄
福澤 幸雄(ふくざわ さちお、1943年(昭和18年)6月18日 - 1969年(昭和44年)2月12日)、フランスのパリ生まれのレーサー兼ファッションモデル。新字体で福沢幸雄とも表記される。身長170cm。
経歴
生い立ち
当時在フランス(ヴィシー政権)日本国大使館に勤務していた父親の福澤進太郎(当時慶大法学部助教授)と、フランスへ歌の勉強に来ていたソプラノ歌手で、ギリシャ人の福澤アクリヴィとの間に生まれた。慶應義塾の創設者福澤諭吉の曾孫で、妹はアーティストの福澤エミ。第二次世界大戦後に家族と共に帰国し、慶應義塾中等部、高校をへて同大学法学部へ進学。
モータースポーツ
在学中からモータースポーツに親しみ、いすゞファクトリー契約のレーシングドライバーの一員となり、ベレットGTで船橋サーキットに通い、1966年(昭和41年)1月トヨタ・ファクトリーの契約レーシングドライバーとなった。
トヨタ在籍時は、スポーツ800、1600GT、2000GT、トヨタ7などのマシンに乗り、数々のビッグイベントで好成績をおさめてきた。特に1968年(昭和43年)11月、富士スピードウェイでおこなわれた“日本Can-Am”での健闘が有名。並みいる外人プロフェッショナルと7リッターのビッグ2座席レーシングカーを相手に、3リッターのトヨタ7で戦い、総合4位。日本人選手の中では第1位という成績で大活躍をした。
また、トヨタ2000GTでは、1966年(昭和41年)秋に同社が茨城県谷田部に所在した日本自動車研究所の自動車高速試験場でおこなわれた“スピード記録挑戦”に参加、4人のチーム・メートと交代でハンドルを握りながら70時間あまりを走りきって輝かしい記録を塗った。因みにプライベートでもトヨタ・2000GTを愛用していた。
トレンドリーダー
また、レーサーとして活躍するかたわら、アパレルメーカーとして人気を博していたエドワーズの取締役兼企画部長を務め、さらに小柄ながらもその端整な顔立ちと福澤諭吉の曾孫という経歴からモデルとしても有名となる。CMの世界では、1967年 - 1968年頃にマックスファクターフォーメン、パナソニックトランジスターラジオ、東レ、トヨタ・パブリカ等のイメージキャラクターでもあった。
また、かまやつひろしや堺正章など、親交の深かったザ・スパイダースの人気の影の立役者でもあり、仕事で行く先々で取り入れた知識や文化を発揮させていた。また、当時から内田裕也や加賀まりこ、川添象郎・光郎兄弟、杉江博愛(のちの徳大寺有恒)らと親交が深く、港区飯倉にある伝説のレストラン「キャンティ」の常連の1人でもあった。
事故死
レーシングドライバーとして更なる飛躍を期待されていたが、1969年(昭和44年)2月12日に静岡県袋井市のヤマハテストコースでトヨタのレーシングカー、トヨタ7のテスト中に起きた事故により、この世を去った。享年25。訃報を聞いた、当時の恋人だった歌手小川知子が、フジテレビ系列の歌謡番組「夜のヒットスタジオ」の生放送中に「初恋のひと」を歌唱しながら号泣した[1]。
後に、親友のかまやつひろしが、彼を偲んだ曲「ソーロングサチオ」を作り、ザ・スパイダースのアルバムに収録し、話題を呼んだ[2]。又、同じく親友の一人であった三保敬太郎により「サウンド・ポエジー“サチオ”」という追悼アルバムも同時期に発表されている[3]。同アルバム内9曲目の「パリの想い出」と言う作品は、伊集加代子のスキャットをBGMに福澤と三保の2人がパリについて語り合うという構成になっており、両名の生前の肉声が聞ける貴重な音源である。また寺山修司は福澤幸雄の事故死をテーマにした「さらばサチオ「男が死ぬとき その2」」を作詞し、現在でもCD(寺山修司 作詞+作詩集)で聴くことができる[4][1]。
事故原因の真相
テンプレート:言葉を濁さない 1969年(昭和44年)2月10日に袋井テストコースがコース開きとなり、翌々日の最初の本格的な走行中に福澤の死亡事故が発生した。ここは10月の日本グランプリに向けて、新型の5リッタートヨタ7の開発拠点となる予定だった。当日、福澤は5リッタートヨタ7用に試作したロングテールのクローズドボディを旧型の3リッタートヨタ7のシャシに装着して先行開発テストを行っていた[5](5リッタートヨタ7は当初クローズドボディで設計されたが、試走の結果からオープンに改装された[6])。直線区間から1コーナーに向かう途中、福澤のマシンは突然コースアウトしてコース脇の芝生に建てられた標識の鉄柱に激突、さらに土手に激突して炎上した。消火作業後に救助が行われたが、福澤はすでに死亡していた。死因は頭蓋骨骨折による脳挫傷で、標識に激突した時点で即死だったとみられる[7]。
事故発生直後にトヨタ側がとった対応は、非常に不穏当なものであったという意見がある。当時は、特にライバルの日産自動車との間でレーシングカーの開発競争にしのぎを削っていた時期でもあり、警察の現場検証に対してさえも「企業秘密保持」との理由から、事故車両を早々と撤収した(証拠隠蔽を図ったのではないかと見る意見がある)。さらに証拠資料として事故車両とは全く違うタイプのレーシングカーの写真を提供したり、また事故原因については、「車両側ではなくドライバー側に非がある」と主張するなど、一方的で大変杜撰な対応であったと見る意見がある。
この事は、当時のマスコミも事件扱いし、多くの新聞や雑誌、果ては国会でも取り上げられ、社会問題にもなった。このようなトヨタの不誠実な対応に怒りを覚えた父の進太郎は、その後息子の幸雄の名誉回復のため、トヨタを相手取り訴訟を起こした(「福沢裁判」と呼ばれる)。10年以上法廷で争った末、1981年(昭和56年)にトヨタが遺族側に6,100万円を支払う形で和解が成立したが、事故原因の真相については未だに謎に包まれたままである[8]。
目撃証言では直線部分で突然クルマの挙動が不安定になり、コース右側の標識に吸い込まれるように激突したという。横風の影響を受けたという見方もあるが、遺族は車両側の原因(空力、強度、マシントラブルなど)による事故の可能性を強く疑った。さらに父・進太郎の証言では前日非常にナーバスになっていたという事、「出来るなら明日は走りたくない。中止になってくれれば嬉しいんだが」という言葉を漏らしていたというメンタル的な不安定説などがある。
福澤の同僚(トヨタワークスのキャプテン)だった細谷四方洋は後に「トヨタ7はル・マン24時間レースやカンナムレースも視野に入れていた。ル・マン用マシンは時速300 km を超えるのを目標に僕(細谷)がテストしていた。悪口のように聞こえたら本意ではないが、僕がマシンをテストし『もう少し煮詰めが必要』と述べたら、福澤君が『そのくらい乗れないでプロと言えますか』ときた。福澤君はセンスがあり速かったが、少し自信過剰になっていたかも知れない」と述べている[9]。
映画
- 男の挑戦 松竹大船 1968年3月1日封切 レーサー役
関連事項
補注
テンプレート:Reflist- ↑ ただしこれに関しては現在ではやらせ説が定説で、テンプレート:要出典範囲
- ↑ かまやつひろしは、福沢の死後「彼はもうひとりのザ・スパイダースだった」と語っている
- ↑ このアルバムは、近年CD音源化され、インディーズレーベルより再発されている
- ↑ favor corporation 寺山修司 作詞+作詩集
- ↑ 檜垣和夫 「SPORTCAR PROFILE SERIES III トヨタ7 PART II 5l仕様」『カーグラフィック 2003年8月号』 ニ玄社、2003年、186頁。
- ↑ 檜垣和夫 「SPORTCAR PROFILE SERIES III トヨタ7 PART II 5l仕様」『カーグラフィック 2003年8月号』 ニ玄社、2003年、188頁。
- ↑ 桂木洋二 『激突 '60年代の日本グランプリ』 グランプリ出版、1995年、152 - 153頁。
- ↑ 詳しくは、『福澤幸雄事件』(青木慧著・汐文社刊・絶版)および『レーサーの死』(黒井尚志著・双葉社刊・ISBN 4575298913)を参照
- ↑ 『ノスタルジックヒーロー』2009年8月号