松本良順
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松本 良順(まつもと りょうじゅん、天保3年6月16日(1832年7月13日) - 明治40年(1907年)3月12日)は、幕末から明治期の御典医、軍医、政治家。爵位は男爵。
西洋医学所頭取、将軍侍医、幕府陸軍軍医、大日本帝国陸軍軍医総監(初代)、貴族院勅撰議員などを務めた。父は佐倉藩藩医で順天堂を営む佐藤泰然。外務大臣の林董は実弟。幼名は佐藤順之助。後に幕医の松本良甫の養子となる。明治4年(1871年)に従五位に叙せられた後、松本順と名乗った。号は蘭疇、楽痴。
略歴
- 天保3年(1832年)6月16日、江戸麻布(東京都港区)に生まれる。
- 嘉永元年(1848年)、佐倉藩で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設していた父佐藤泰然の元へ行き、助手を勤める。
- 嘉永2年(1849年)、松本良甫の養子となる。
- 嘉永3年(1850年)、長男銈太郎誕生。
- 安政4年(1857年)閏5月18日、長崎伝習之御用を命じられ、長崎海軍伝習所に赴く。オランダ軍医のポンペに医学等の蘭学を学ぶ。
- 文久2年(1862年)閏8月8日、奥詰医師となり、医学所頭取助を兼ねる。
- 文久3年(1863年)12月26日、奥医師に進み、医学所頭取となる。
- 元治元年(1864年)5月9日、法眼に叙せらる。同年6月1日、奥医師の任を解かれ、寄合医師となる。同年8月15日、奥医師に再任される。将軍侍医などを務め、将軍徳川家茂などの治療を行う。
- 会津藩の下で京都の治安維持のために活動していた新選組の局長である近藤勇とも親交があり、隊士の診療も行う。
- 慶応2年(1866年)夏、第2次長州征伐のため、大坂に出陣していた徳川家茂の病状が悪化、家茂から常に近侍するように求められ、当人も不眠で治療にあたることでその信頼に応えたが、その甲斐なく7月20日に家茂の死を看取った。
- 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏した。戦後一時投獄されるが赦免され、出獄後に山縣有朋などの薦めで大日本帝国陸軍軍医総監となる。
- 明治35年(1902年)4月1日 退役[1]
- 明治40年(1907年)3月12日 死去[2]、享年75。墓所は神奈川県中郡大磯町の妙大寺。
その他
- 親交のあった近藤勇・土方歳三の供養塔を、新選組二番隊組長でもあった永倉新八に請われ建立した。
- 長野県湯田中温泉において、温泉入浴法を示し、湯田中温泉を長寿の湯と褒め称えた。現在の湯田中大湯には、現在も当時の温泉入浴法が掲げられている。
- 神奈川県大磯町を海水浴が最適な別荘地として開発した。
- 牛乳の摂取や海水浴などの普及も行う。
- 2011年現在、日本で唯一「征」の字を使用している日本医薬品製造社製の征露丸に当人の顔写真がロゴとして使用されている。
脚注
関連文献
参考文献
- 著作は口述筆記で『病難除』、『民間諸病療治法』(明治13年に資生堂)、『通俗医療便方』、『民間治療法』(愛生館で多数の版)、『通俗衛生小言』などがある。
- 小川鼎三、酒井シヅ校注 『松本順自伝、長與專齋自伝』(平凡社東洋文庫、1980年)、原題は『蘭疇自伝』
- 鈴木要吾 『蘭学全盛時代と蘭畴の生涯 伝記・松本順』
- 復刻版〈伝記叢書137〉大空社、1994年、元版は東京醫(医)事新誌局、1933年
関連書籍
関連項目
- ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト
- 司馬凌海 – 幕末期の門下生
- 長崎養生所
- 大磯町 - 2007年に同町の郷土資料館が、没後100周年記念展『大磯の蘭疇 松本順と大磯海水浴場』を催した。
- 弾左衛門 - 13代目の病を治療した事から縁ができ、維新の際に身分昇格に尽力した。
- 化学遺産
外部リンク
- 1865年の松本良順肖像 - ボードインコレクション