朝香宮鳩彦王

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テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年明治20年)10月20日 - 1981年昭和56年)4月12日)は日本皇族陸軍軍人久邇宮朝彦親王の第8王子で、朝香宮初代当主。1947年(昭和22年)10月14日臣籍降下を行い、朝香鳩彦(あさか やすひこ)と名乗る。

最終階級陸軍大将勲等大勲位功一級。また、「ゴルフの宮様」として知られる。

生涯

1887年(明治20年)10月、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、1906年(明治39年)3月に朝香宮家を創設。「朝香」の名は明治天皇より賜ったもので、父・朝彦親王が伊勢神宮祭主を務めていたことにちなみ、伊勢国朝香山から採られた宮号である。1910年(明治43年)には明治天皇皇女允子内親王と結婚する。

皇族男子は陸海軍いずれかで奉職するしきたりがあったため、鳩彦王は学習院東京陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て1908年(明治41年)5月27日に陸軍士官学校(20期、兵科歩兵)を卒業。同年12月25日に、陸軍歩兵少尉任官、近衛歩兵第2連隊附を命ぜられる。

ファイル:Prince Asaka Yasuhiko 01.jpg
1914年(大正3年)頃、陸軍歩兵大尉近衛歩兵第2連隊附)当時の朝香宮鳩彦王。特徴的な軍帽は襠の全周が極めて高く、後のチェッコ式の流行を先取りした物に近い。軍衣の襟は極めて高く雨蓋にも拘り、全体的にタイトで極まってスマートな仕立て

鳩彦王は他の皇族たる陸軍軍人(賀陽宮恒憲王閑院宮春仁王朝香宮孚彦王北白川宮永久王竹田宮恒徳王等)がそうであったように、軍服大正末・昭和期当時の陸軍青年将校の間で大流行していた、瀟洒なものを仕立て着用していた。中でも鳩彦王は、昭和初期に大流行する以前の大正初期には既に派手な軍装品を誂えていた。

1914年大正3年)11月には陸軍大学校(26期)を卒業し歩兵第61連隊中隊長となる。その後、1922年(大正11年)にフランス留学するが、翌年、義兄の北白川宮成久王の運転する自動車が交通事故を起こし、この事故で成久王は薨去。同乗していた鳩彦王は重傷を負う。怪我の療養のためフランス滞在が長引いたことで、フランス文化により長く触れることになった。特に、看病のため渡仏した宮妃ととも1925年(大正14年)のパリ万国博覧会アール・デコ博)を観覧し、同様式に対して強い関心と理解を示した。後の1933年(昭和8年)に完成した朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)は日本の代表的なアール・デコ建築とされている。

その後、陸軍少将陸軍中将と昇級し歩兵第1旅団長、近衛師団長、軍事参議官を歴任する。1937年昭和12年)12月2日、上海派遣軍司令官を拝命し、直後の南京攻略戦に参加、1939年(昭和14年)8月には陸軍大将に昇った。後の太平洋戦争大東亜戦争)終盤においては、主戦論者として本土決戦に備えた陸海軍統合(統帥一元化)を主張・力説していた。また、小磯内閣当時には杉山元陸軍大臣の更迭を求めて運動したこともあった。

戦後、上海派遣軍司令官として南京事件に関与した疑いでGHQから戦犯に指名される可能性があったが、戦犯指定は受けなかった。

1947年(昭和22年)、GHQの命令により同年10月14日に皇籍離脱、後は、東京都港区芝白金台町(現在の港区白金台)にあった朝香宮邸を外務省に貸し出し(これは外務大臣公邸 として一時期事実上の総理大臣公邸の役割を担っており、「目黒公邸」とも呼称されていた)、自身は熱海の別荘に隠棲してゴルフ三昧を嗜む日々を送った。

数多くのゴルフクラブの会長・名誉会長を務めたが、その中で1930年(昭和5年)に鳩彦王が名誉会長を務める「東京ゴルフ倶楽部」が埼玉県に移転した際、移転先の膝折村が朝香宮にちなんで1932年(昭和7年)5月1日に朝町(現朝霞市、宮号をそのまま使うのは畏れ多いとして一字を替えた)と改称されている。

軍歴

ファイル:Memorial Ceremony for War Dead at Kukung Airfield.jpg
陸軍中将(上海派遣軍司令官)当時の朝香宮鳩彦王。左端より海軍中将長谷川清支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官)、陸軍大将松井石根中支那方面軍司令官)、朝香宮鳩彦王、陸軍中将柳川平助第10軍司令官)

血縁

関連項目

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外部リンク