南京事件 (1927年)
南京事件(なんきんじけん)は、1927年(昭和2年)3月、蒋介石の国民革命軍の第2軍と第6軍を主力とする江右軍(総指揮・程潜)[1]が南京を占領した際に起きた日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件。
事件の経過
反帝国主義暴動の発生
1927年(昭和2年)3月24日早朝、国民軍総司令蒋介石の北伐軍が南京に入城した。その軍長は程潜であった[2]。当初は平和裏に入城していたが、まもなく、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日本1人(後述の宿泊船(en)警備の海軍兵)[3]、イギリス3人[3]、アメリカ合衆国1人[3]、イタリア1人、フランス1人、デンマーク1人の死者、2人の行方不明者が出た。
このうち日本領事館では、警備の海軍陸戦隊員は反撃を禁じられていたため[4]、館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。日本側の報道によると、駆逐艦「檜」などから派遣されていた領事館警備の陸戦隊の兵力は10人しかなく、抵抗すれば尼港事件のような民間人殺害を誘発する危険があると考えられたため、無抵抗が徹底されたという[3]。正門で歩哨に就いていた西原二等兵曹が侵入者を制止しようとした際、群衆は「やっつけろ、やっつけろ」と連呼しながら銃剣で突きまくり顔面や頭部をめった打ちにして負傷させたという[3]。根本博陸軍武官と木村領事館警察署長は金庫が開かない腹いせに銃剣で刺されて負傷、領事夫人も陵辱されたという。領事館への襲撃のほか、係留中の宿泊船(ハルク)の警備についていた後藤三等機関兵曹は狙撃により射殺されたという[3]。事件後の被害者の証言によれば、当時の30数名の婦女は少女にいたるまで陵辱され、指輪をつけていた女性は指ごと切り落とされたという。ある女性が暴兵のために一室に連れて行かれようとする際、「どうぞ助けてください」と必死に叫んだが、警備兵は抵抗できず、見捨てざるを得なかったという[5]。
この事件はあえて外国の干渉をさそって蒋介石を倒す中国共産党の計画的策謀といわれているテンプレート:要出典。事件のかげにはソ連の顧問ミハイル・ボロディンがいて、第6軍政治部主任林祖涵と、第2軍政治部主任李富春は共産分子であり、軍長の程潜は彼らにあやつられていた。事件前夜の3月23日にボロディンが武漢で招集した中央政治委員会で、林祖涵は程潜を江蘇政務委員会の主席にするよう提案していたという[6]。その後の中国の進路や日本の対中政策を大きく変えることになった。
アメリカ・イギリス軍の反撃
下関に停泊中のアメリカ軍とイギリス軍の艦艇は25日午後3時40分頃より城内に艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。砲弾は1時間余りで約200発が撃ち込まれ、日本領事館近傍にも着弾した。多数の中国の軍民が砲撃で死傷したとされている。
日本は、虐殺を誘致するおそれありとして砲撃には参加しなかったが、25日朝に警備強化のため新たに陸戦隊90人を上陸させた[3]。領事館の避難民らは、イギリス軍による反撃に巻き込まれるのを避けるため、増援の陸戦隊に守られて軍艦に収容された。
蒋介石は、29日に九江より上海に来て、暴行兵を処罰すること、上海の治安を確保すること、排外主義を目的としないことなどの内容を声明で発表した。しかし、日英米仏伊五カ国の公使が関係指揮官及び兵士の厳罰、蒋介石の文書による謝罪、外国人の生命財産に対する保障、人的物的被害の賠償を共同して要求したところ、外交部長・陳友仁は責任の一部が不平等条約の存在にあるとし、紛糾した。
中ソ断交と上海クーデター
南京事件の北京への波及を恐れた列強は、南京事件の背後に共産党とソ連の策動があるとして日英米仏など七カ国外交団が厳重かつ然るべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。その結果、4月6日には張作霖によりソ連大使館を目的とした各国公使館区域の捜索が行われ、ソ連人23人を含む74人が逮捕された[7]。押収された極秘文書の中に次のような内容の「訓令」があったと総司令部が発表した。その内容とは、外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令、短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離すること、在留日本人への危害を控えること、排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるというものである。「訓令」の内容は実際の南京事件の経緯と符合しており、「訓令」の発出が事実であったとする見解は有力である[8]。
4月9日、ソ連は中国に対し国交断絶を伝えた。4月12日、南京の国民革命軍総指令・蒋介石は、上海に戒厳令を布告した。いわゆる、四・一二反共クーデター(上海クーデター)である。この際、共産党指導者90名余りと共産主義者とみなされた人々が処刑された[9]。また、英国は、南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月26日[10]、ソ連と断交した(アルコス事件参照)。
武漢政府が容共政策放棄を声明し、南京に国民統一政府が組織されると、1928年4月にアメリカ合衆国、8月にイギリス、10月にフランスとイタリア、1929年4月に日本と、それぞれ協定を結んで外交的には南京事件が解決した。
事件の影響
日本海軍はアメリカ・イギリス海軍のように南京市内を砲撃しなかったため、日本側の思惑とは反対に中国民衆からは日本の軍艦は弾丸がない、案山子、張子の虎として嘲笑されるようになった[11]。まもなく、漢口でも日本領事館や居留民が襲撃される漢口事件が引き起こされることとなった。南京事件中に日本領事館を守るために第24駆逐隊の駆逐艦檜から派遣された荒木亀男大尉指揮下の海軍陸戦隊が中国兵によって武を汚されたことは第一遣外艦隊司令部において問責され、荒木大尉は拳銃自殺を図ったが、一命を取り留めた[11]。
事件の反響を恐れた日本政府は「我が在留婦女にして凌辱を受けたるもの一名もなし」とうそを発表したため、南京の日本人居留民は憤慨し、中国の横暴を伝える大会を開こうとしたが、日本政府によって禁じられた[12]。
国民党は日本の無抵抗主義を宣伝したため、この事件は多くの中国人に知られるようになり、中国人は日本を見下すようになった。同年4月には漢口事件が発生した。翌年1928年5月には済南事件が起こり多くの日本人が虐殺された[13]。
テンプレート:要出典1924年の加藤高明内閣の外相・幣原喜重郎は、それまでの対中政策をやや修正し、幣原三原則を基本とした親善政策である「幣原外交」を展開していた。外務省は事件当初から、森岡領事から受けた、共産党の計画による組織的な排外暴動であるとの報告により、南京事件が蒋介石の失脚をねらう過激分子によるものと判断していたが、列強が強行策をとれば蒋介石の敵を利するものだとして、幣原は一貫して不干渉政策をとり、列強を説得した。しかし、南京事件や漢口事件などにより国民の対中感情が悪化、幣原外交は「軟弱外交」として批判された。金融恐慌の中、事件直後の4月若槻禮次郎内閣が総辞職すると、田中義一が首相と外相を兼任、かねてから中国より東北三省を切り離すことを主張していた外務政務次官・森恪がその政策の背後にあり、日本の対中外交は一変することになった。
脚注
- ↑ 蒋介石秘録7
- ↑ 『もうひとつの南京事件-日本人遭難者の記録』52頁
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 「全身血を浴びて倒れた根本少佐と木村署長 鬨を揚げて押寄せた暴兵」『大阪朝日新聞』 1927年3月30日
- ↑ 佐々木到一(著) 『ある軍人の自伝』 普通社〈中国新書〉、1963年。
- ↑ 『南京漢口事件真相』
- ↑ 蒋介石秘録7
- ↑ ソ連は「北清事変」議定書を破棄していたので、中国側の捜査を拒むことができないとされた。
- ↑ 児島襄『日中戦争1』文春文庫p.83。
- ↑ 当時の革命ロシア(ソ連)側の立場から蒋介石を糾弾するプロパガンダ映画、『上海ドキュメント』(Шанхайский документ,Shangkhaiskii Dokument,Shanghai Document,ヤコフ・ブリオフ監督 1928年)に共産党弾圧の様子が記録されている。
- ↑ ソビエト連邦の諸外国との外交関係樹立の日付
- ↑ 11.0 11.1 テンプレート:Cite book
- ↑ 拳骨拓史『「反日思想」歴史の真実』
- ↑ 拳骨拓史『「反日思想」歴史の真実』
参考文献
- サンケイ新聞社『蒋介石秘録(上):改訂特装版』(サンケイ出版、1985年)ISBN 438302422X
- 児島襄『日中戦争1』(文春文庫、1988年)ISBN 4167141299
- 田中秀雄『もうひとつの南京事件-日本人遭難者の記録』(中支被難者聯合会編、田中秀雄編集・解説、芙蓉書房出版、2006年6月)ISBN 4829503815
- FredericVincentWilliams『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』田中秀雄訳(芙蓉書房出版、2009年) ISBN 978-4-8295-0467-3
- 『大百科事典』平凡社、昭和13年(「ナンキンジケン」の項)
- 国際交流基金の『上海ドキュメント』批評
- 映画100年ロシア・ソビエト映画祭
- New York Times :serch "Nanking 1927"