村浜武洋
村浜 武洋(むらはま たけひろ、男性、1974年12月5日 - )は、シュートボクシング出身のプロレスラー、キックボクサー、総合格闘家。本名村濱 武洋。石川県野々市市出身。大阪ファイティングファクトリー所属。兄は総合格闘家の村濱天晴。
シュートボクサー時代はキックボクシングに対する辛辣な発言で物議をかもした。しかし「あと10cm身長が高ければ、日本の格闘技の歴史は変わっていた」と言われる程の格闘センスを発揮した。
大阪プロレスに所属していたが、2004年に退団しフリーランスとなった。
2005年5月よりZERO1-MAXと契約、入団したが怪我による体調不良のせいもあり1年で解雇された。
選手引退後は正道会館において空手指導者を目指す。
2010年3月27日のK-1 WORLD MAX 2010 〜-70kg Japan Tournament〜よりリングネームを村浜 TAKE HERO(むらはま テイクヒーロー)に改名した[1]。
目次
来歴
幼少期
学生時代に主に柔道を経験する。その後新空手、アマシュートボクシング(以下SB)を経験し、シュートボクサーとしてプロデビューを果たした。ちなみにアマチュア時代には土屋ジョー、鈴木秀明とも対戦経験がありいずれも村浜が勝利している。特に新空手第三回神奈川大会は、新空手史上稀に見る激戦の連続であり、優勝・村浜武洋、準優勝・鈴木秀明、3位・山田隆博という顔ぶれが揃う大会であった。
シュートボクシング時代
小柄ながらスピードある連打とフットワーク、無尽蔵のスタミナを生かし大活躍する。王座を獲得した後はSB内ではライバルが見当たらず、その後は主にタイ人との試合が多くなっていく。敵地タイでも闘った。中期のSBのエースであった。
1997年に行われたK-1フェザー級 (60kg) トーナメントにSB代表として出場。当時のキック界の主要選手であった前田憲作、佐藤堅一らを破って優勝。普段からのビッグマウスを有言実行してみせた。
しかしその後、シーザージムとの関係がこじれ、村浜はジムに全く訪れなくなる。試合も組まれなくなり、ジムからは退会、事実上SBには戻れなくなってしまった。その後はプロレス入りをする。
大阪プロレス時代
1999年から大阪プロレスに参戦、当初は異種格闘技戦という形でスペル・デルフィンと抗争。一匹狼のヒールとしてその個性を遺憾なく発揮する。最終的に敗れたもののデルフィンとの間に友情が生まれ大阪プロレスに入団を決意する。その後はプロレスのムーヴに順応していき団体の看板を背負う選手になっていく。この間も総合格闘技への参戦も並行して行いそちらでも活躍を見せる(#K-1 WORLD MAX, HERO'Sへの挑戦参照)。
2002年に獣神サンダー・ライガーと対戦し、ライガーから高い評価を受け後にタッグを結成している。2003年にデルフィンが第一線を退きエースに指名される。
2004年にK-1 WORLD MAXのリングで山本"KID"徳郁に敗戦(後述)してからは故障も相まって精彩を欠くようになり、2005年1月末をもって大阪プロレスを退団。
ZERO1-MAX時代
大阪プロレスを離脱後、大阪に住むZERO1-MAX会長に誘われ、4月に靖国神社で行われた奉納プロレスを観戦、そこで健介オフィスの中嶋勝彦にタッグ結成を依頼され承諾、高岩竜一には挑発されZERO1-MAX参戦を決める。以後、数回のZERO1-MAX来場を経て5月より正式参戦、さらにZERO1-MAXを運営するFOS(ファーストオンステージ)がプロレスリング・ノアと共催した「第2回ディファカップ」に中嶋とのタッグで参戦も1回戦敗退。タッグも事実上解消となった。
その後、ZERO1-MAXで開催された「第三回天下一Jr.」にフリーとして参戦、決勝に進むも佐々木義人に敗れ準優勝。ZERO1-MAXの運営会社・FOSがPRIDE運営のDSEと共催しているプロレスイベント「ハッスル」に、坂田亘のパートナーとして突如参戦する。しかしその直後、K-1の総合格闘技イベント「HERO'S」のオファーが届き、村浜選手も「谷川さんと前田さんと上井さんに頼まれては断れない」と、出場を了承、一時的とはいえDSEとK-1 (FEG) の主催イベントを掛け持ちする状況を体験することとなった。なお、村浜本人はK-1 WORLD MAXへの出場を最優先に考えていたため、すでに決定していたハッスルの試合を消化後はK-1側に気を使ってハッスル参戦を取りやめており、坂田亘のパートナーもマーク・コールマンとなった。
6月の後楽園大会ではFOS側のギャラの整備も兼ね、5月1日に遡ってZERO1-MAXに正式所属したことを発表。所属になった最大の理由は「悪くは無い金銭条件で不明瞭な点がない事」「昨年怪我で長期欠場した時に生活の安定を欲したこと」をあげており、結婚したことがその心境に影響を与えたと思われる。
そして7月6日、ZERO1-MAXの試合を休んで万全を期して挑んだHERO'Sミドル級トーナメントだったが、1回戦でレミギウス・モリカビュチスに1分14秒でKO負け、総合格闘技からの撤退を宣言、当面はプロレスに専念しながらK-1 WORLD MAXのオファーを待つこととなった。
以後、ZERO1-MAXでの村浜選手は怪我との戦いになる。前年痛めた膝が万全ではなく、主に前座で若手と戦うことが多くなるが、本人は「ヘビーと当たってなかったので毎日が新鮮」と試合を消化していくが、そこに村浜らしさは見られなかった。そんな村浜にZERO1-MAX側も8月24日長野大会で全日本キックの小林聡と2Rのキックルールエキシビションマッチを組むが、膝を悪化させ消化不良の内容に終わり短期休養したり、またかつて同じ大阪プロレス所属だったGammaを呼びタッグを結成、10月2日札幌大会で日高郁人・藤田ミノル組の持つベルトに挑戦させるがこれまた膝の怪我が響き敗戦する。10月10日後楽園大会ではZERO1-MAX所属選手内での主要タッグパートナー・神風と共に大谷晋二郎・田中将斗の炎武連夢と対戦、久々に「らしい試合」を見せるものの炎武連夢に「もっとはじけろ」「何をしに来てるんだ」と酷評される。
10月に入り新日本とZERO1-MAXの抗争が激化し始めるが、村浜選手は大阪プロレス時代に新日本とは何度も対戦やタッグを組んだりしたため「ZERO1-MAXの選手とやっている方が新鮮」と、まったく干渉しないスタンスを取る。この頃、大阪プロレスを離脱したレフェリー・選手による興行「びっくりプロレス」岸和田大会に参戦、久々に菊タロー(初代えべっさん)と再会し、ミックスドマッチで対戦した。
11月10日、Gammaとのタッグでノンタイトル戦とはいえ日高・藤田とのリベンジマッチを成田大会で行うが、菅原拓也に乱入され反則負け、Gammaはみちのくプロレスでもタッグを組んでいた菅原とのタッグを表明、村浜選手は1人取り残される結果となった。そして迎えた11月23日後楽園大会、ZERO1-MAX参戦のきっかけとなった靖国神社での因縁の高岩選手とシングルマッチを行うが膝を一方的に攻められわずか5分でレフェリーストップ負け、長期離脱が避けられない状況となり、FOS社長・中村氏も解雇を示唆した。
2006年2月4日、石巻大会にて復帰も精彩の無い試合としまりのないコンディションにより前座の試合が続き、4月の後楽園大会ではついにダーク・マッチへ降格、出場すらさせてもらえない試合も増え、4月末の契約期間満了をもって事実上、解雇された。これにより、村浜にとっては、シュートボクシング離脱、山本"KID"徳郁戦での敗北に続いて、3度目の転機が訪れていると言える。
K-1 WORLD MAX, HERO'Sへの挑戦
SB離脱後は前述の通り、プロレスラーとして生計を立てていたが、K-1 WORLD MAXへの参戦を表明する。村浜の体格では不利ながらも、SB時代に培った打撃で大活躍し、魔裟斗らを苦しめた。一度目の魔裟斗戦は好試合が多かったその興行の中でもベストバウトとしてあげられる。
2000年9月5日、リングス BATTLE GENESIS Vol.6で総合格闘技デビュー。2001年1月8日にはDEEP2001のリングでホイラー・グレイシーと対戦。フラッシュダウンを奪いドローに持ち込む。以後、辰吉丈一郎と激戦を展開したボクシング元世界王者のビクトル・ラバナレスに勝利するなど総合格闘技でも大活躍、そのポテンシャルを示したが、2度にわたるジョン・ホーキへの敗退により一時的に総合格闘技から撤退する。
2004年2月24日、K-1 WORLD MAX 2004 〜日本代表決定トーナメント〜 1回戦で山本"KID"徳郁と対戦。K-1ルール初挑戦のKIDに対し、1Rに1度、2Rに2度ダウンを奪われ、KO負け。
2005年2月23日、K-1 WORLD MAX 2005 〜日本代表決定トーナメント〜 1回戦でHAYATOにTKO勝ち。準決勝で新田明臣にローキックでスリップ気味のダウンを奪われ判定負け。さらに、2005年7月6日のHERO'Sでレミギウス・モリカビュチスに1RKO負けを喫した。
その後
2006年9月24日、立ち技格闘技イベントR.I.S.E.へ出場し、裕樹と対戦したが判定負け。
2006年10月、プロレス復帰戦としてUWAI STATIONへの参戦が決定していたが、主催者側の都合により大会自体が延期、結局村浜自身にとって久々のプロレスマッチは、2007年1月14日のUWAI STATION福岡大会までずれ込んだ。
2007年にはR.I.S.E.、全日本キックボクシング連盟に参戦するも連敗を重ねた。限界説が囁かれる中、2007年10月28日に古巣のシュートボクシング参戦を果たした。
2008年9月27日、ニュージャパンキックボクシング連盟の後楽園ホール大会でTOMONORIに判定負け。
2009年9月28日、Survivor Round.1で久保優太と対戦し、KO負け。
2010年3月27日、K-1 WORLD MAX 2010 〜-70kg Japan Tournament〜のスーパーファイトで小宮山工介と対戦し、TKO負け。この試合よりリングネームを村浜 TAKE HEROと改名した[1]。
戦績
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総合格闘技
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獲得タイトル
格闘技
- 日本シュートボクシングカーディナル級王座
- K-1 JAPAN GP 1997 フェザー級トーナメント 優勝
- KICK世界スーパーフェザー級王座
プロレス
- 第2代、第6代大阪プロレス王座
- 第3代、第7代大阪プロレスタッグ王座(パートナーは第3代が怪獣Zマンドラ、第7代が獣神サンダー・ライガー)
エピソード
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:Martialart-stub- ↑ 1.0 1.1 【K-1MAX】3・27新階級63kg新設・トーナメント開催へ!渡辺一久「俺がこの階級を背負う」 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年2月19日