青ヶ島村

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ファイル:Aogashima Heliport.JPG
青ヶ島ヘリポート

青ヶ島村(あおがしまむら)は、伊豆諸島にある東京都。伊豆諸島南部の青ヶ島全域を村域とする。

所属する郡はなく「東京都青ヶ島村」が正式な表記である。所管する都の行政出先機関は八丈支庁

日本国内で最も人口の少ない地方自治体で、2014年1月1日時点での人口は170人である[1]。人口の約半分が島外出身の村役場職員や学校教員・建設作業員及びその家族で占められていることから、島民の平均年齢は離島としては若く、30歳代後半である。

地理

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青ヶ島は、東京の南358.4キロメートルの太平洋上に浮かぶ伊豆諸島である。一番近い八丈島からは南へ71.4キロメートル離れている。気候は温暖湿潤である。青ヶ島は、世界でも珍しい端正な二重のカルデラ複成火山の島である。外側のカルデラの中央には丸山という内輪山がある。青ヶ島の最高点はこの丸山を取り囲んでいる外輪山の北西部分に当たる大凸部(おおとんぶ)で標高423.0メートルである。

人が定住している集落は島の北部にあり、村役場を中心に東側の休戸郷(やすんどごう)と西側の西郷(にしごう)の二つである。ただし、これら集落名は登記上の公式地名ではない。島内の住所は公式には全て「青ヶ島村無番地」であり、大字小字地番は存在しない。

港は島の南西部、集落から遠く離れた断崖絶壁の下の「三宝(さんぽう)港(青ヶ島港)」のみである。かつての三宝港は、漁船はしけ程度の船舶しか着けられないようなささやかな船着場であった(この頃は、人や物資の搬入は沖合いに停泊した船から、はしけでピストン輸送するしかなく、荷揚げに時間がかかった。また、少しの高波でも作業が出来なくなったため、就航率が極端に低く、天候急変による作業中の船舶の離脱もあり、積み残しが多かった)。120億円を投じて建設された現在の同港には防波堤を兼ねた貨物船用の波止場もでき、500トン級の船舶が着岸できるようになった。しかし、付近の黒潮の激しさと同港の貧弱さから、定期船「還住(かんじゅう)丸」(後述)の就航率は6割弱(特に海が荒れやすい冬場は週に1度から10日に1度の出港率)と低い状態が続いている。このため、三宝港を補うべく島の南東部に「大千代港」が建設されたが、現在は港への道路が大きく崩壊しており利用できなくなっている。島北端に近い神子ノ浦(みこのうら)もかつては船着場として利用されていたが、浦の付近は断崖絶壁であり、アクセス道も崩壊して近付けなくなっている。

空路は1993年(平成5年)8月25日より、東邦航空ヘリコプターによるコミューター東京愛らんどシャトル』が八丈島を起点にして伊豆諸島のほかの島との間に開設されている。空路は航路よりも運賃は高いが、気象条件に左右されて欠航しがちな航路に比較して就航率がはるかに高い(約9割)ため、島民の主たる足となっている。このヘリコミューターが開設される前は、いったん海況が悪化すると、一切の物資が届かず来島者も帰れないという状態が半月以上続くことが珍しくなかった。八丈島に向けてヘリコミューターが離陸する際には、送迎の島民が手を振り駐在所警察官敬礼する風景がみられる。

歴史

  • 1785年 - 「天明の別れ」(天明5年の大噴火)
    この年の4月18日から始まり5月頃まで続いた大噴火が青ヶ島の最も新しい火山活動である。当時327人いたとされる島民のうち202人が八丈島からの救助により避難するも、避難に間に合わなかった残りの者は爆発に巻き込まれて全員死亡したとされる。
    八丈島での避難生活は、時には流人以下の扱いを受けるという悲惨なものであった。これは、不作続き(天明の大飢饉)で八丈島民だけでも食うのがやっとであったにもかかわらず、幕府が避難民の他地域への移住を認めなかった(さらに八丈島の流人はもともと武家など身分の高い人物ばかりだった)というやむを得ない事情による。かつての豊かな青ヶ島を夢見て帰島を企てる者も幾度かあったが、八丈島と青ヶ島の間の海で遭難したり、青ヶ島に渡ることに成功しても噴火で荒廃した土地では生きていけず、かなわなかった。
  • 1817年 - 隠居した名主にかわり佐々木次郎太夫が名主となる
    佐々木次郎太夫の周到な計画のもとで、帰島事業が着々と進められる。
  • 1824年 - 「還住」
    この年についに還住(全島民帰還)を果たす。
  • 1835年 - 島の再興が宣言される(検地が行われ、正規の年貢が納められるまでになった)
    天明の別れから復興まで半世紀もの歳月がかかった。定期船「還住丸」の名称はこの一連の出来事に由来している。この時点での島の人口は241名(男133名、女108名)。
  • 1940年(昭和15年)4月1日 - 町村制施行[2][3]
    青ヶ島は八丈支庁の管轄となり、青ヶ島村が置かれる。
  • 1946年(昭和21年)1月29日 - 日本からの一時的な行政権切り離し
    連合国軍総司令部(GHQ)が発表した「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件」という覚書により、日本政府の行政権から切り離される。他の伊豆諸島の町村と同じく同年3月22日に復帰。
  • 1956年(昭和31年)7月8日 - 初の国政選挙実施
    青ヶ島は僻地で通信手段がないとの理由から、国政選挙および都政選挙については日本国憲法で保障された参政権が制限され、選挙に参加できなかった[4]短波による無線電話が整備され、この日行われた第4回参議院議員通常選挙が青ヶ島初の国政選挙となった。
  • 1974年(昭和49年)6月28日 - 村章を制定する[5]

変遷表

人口

テンプレート:人口統計

行政

  • 村長:菊池利光(2001年10月1日就任、3期目)
  • 村議会:定数6(任期は2013年9月5日)

経済

産業

前記のとおり島民の約半分が村役場職員や建設作業員であるため、主な産業公共事業及び島内出身者による農業である。農業のうち、特に畜産業(繁殖させた和牛黒毛和種)の子牛を本土へ出荷、1972年(昭和47年)までは乳牛も飼養していた)はかつて島の基幹産業であった。ただし近年では飼養者の高齢化による粗飼料耕作地の放棄やBSE問題などによって急速にその戸数・頭数を減らしている。

島の周辺海域はフィッシングスポットでもある。しかし、訪れる遊漁船の多くは八丈島からのチャーターであるため上陸する人は少ない。

2010年現在、集落には5軒の民宿、1軒の自動車整備工場(レンタカー店を兼ねる)、食料品、日用雑貨、釣り用具、燃料などを販売する商店が2軒、居酒屋が1軒ある。この他に、池之沢(カルデラ)の製塩所付近にキャンプ場と地熱サウナ(ふれあいサウナ)があるが、観光地化されているとはいえない。来島者の大部分は農林水産・土木・設備関連を主とする公共事業目的の公務員及び建設作業の従事者である。

黒毛和牛の他の名産品としては、三宝港よりポンプで汲み上げた海水から火山の地熱を利用して作った「ひんぎゃの塩」がある。「ひんぎゃ」は島言葉で「噴気孔のある場所」の意である。また最近では、島特産の「かんも」(サツマイモ)を原料とした芋焼酎である青酎(あおちゅう)が有名となってきている。しかし、の頭数減少によってかんもの栽培に用いる堆肥が減少し、また青酎自体が有名になりすぎてしまったこともあって、供給能力が到底追いつかない状態になっている。

ひんぎゃの塩及び青酎は先述の商店や八丈島の土産物店等で購入する事ができるが、実は、青酎に関しては一部の民宿でも自家製が宿泊客に振る舞われている。1984年に青ヶ島酒造合資会社が設立される前は、島内では密造酒のような形で各家庭が勝手に焼酎を作って消費していた。これは、交通の便が非常に悪いことから税務職員も行きたがらない上、赴かせるにしてもその事で得られるであろう酒税の税収額に対して徴税費(税収を得る為の経費)や各種手間が大きすぎることから、酒税が課されない状態が黙認されていたためであるテンプレート:要出典。現在でも、自家消費分に関しては事実上黙認状態でありテンプレート:要出典、一般販売されている青酎も、外見は全く同じでもその中身を実際に作った生産者の違いによって各ボトル毎に味が微妙に異なる。

公共機関

教育

日本郵政グループ

青ヶ島村一円の郵便番号は「100-1701」である。

  • 新東京郵便局 青ケ島集配所(青ケ島郵便局と併設)
  • 青ケ島郵便局 - 2014年5月現在、郵便窓口は土曜・休日も開設(午前中のみ)。ただし局内設置のゆうちょ銀行ATMは土曜・休日は稼働していない。島で唯一の金融機関である。

その他

  • おじゃれセンター - 役場近くにある福祉医療施設で、1階は診療所、2階は保健センター、3階は保育所となっている。2階には介助浴室、会議室などもある。「おじゃれ」は島の言葉で「いらっしゃい」の意。
  • 村立図書館 - 役場近くにある。

その他、集落内には老人福祉館、駐在所、牛の人工受精センター、物流センター、東京電力発電所などがあり、集落の南には天水を集めるための取水場簡易水道施設がある。

交通・通信

島内における公共交通機関は皆無。レンタカー店が一軒ある。三宝港から集落までは遠く離れており、観光客は民宿の車に送迎を頼む場合が多い。

道路

1985年に、三宝港と池之沢(カルデラ)を結ぶ青宝トンネル(505メートル)が開通、1992年にはカルデラの東側に平成流し坂トンネルが開通し、島内の道路事情は改善されている。三宝港から島の西側を通って集落へ向かう都道は崩落のため通行不能になっている。

航路

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三宝港を出る還住丸

伊豆諸島開発

  • 定期旅客船「還住丸」が八丈島八重根漁港~青ヶ島三宝港間を日曜日を除く毎日1往復、所要2時間30分(片道)。平成15年の就航率は6割弱。欠航が続いた場合、日曜日に臨時運航されることもある。
  • 貨物船「黒潮丸」が八丈島底土港〜青ヶ島三宝港間を毎週土曜日1往復、所要4時間。かつては客を乗せていたが、現在は原則として貨物専用ということになっている。

空路

東邦航空

  • ヘリコミューター「東京愛らんどシャトル」が青ヶ島~八丈島空港間を毎日1往復、所要20分。平成15年の就航率は9割弱。欠航が続いた場合や村長からの要請がある場合は臨時便として定期便の飛行前及び1日の飛行後(=御蔵島から八丈島に戻ってきた後)に増発されることもある。還住丸の就航率が低く、ヘリ自体の定員も9名と少ないことから常時満席であるため、早めの予約(搭乗日の1か月前から可能)が必要である。

通信

NTTドコモ
  • mova、FOMA共に使用可能
au
  • 使用可能(集落付近のみ)
ソフトバンク
  • 使用可能(集落付近のみ)
WILLCOM
  • 使用不可能(圏外)

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

  • 牛祭り(8月10日
    青ヶ島村の夏祭りである牛祭りは村内最大の行事で、曜日に関係なくこの日程で実施される。この日に合わせて島外にいる村出身者が大勢帰省してくるため、島内は一斉に賑やかになる。また、祭りの実行委員会が作成するTシャツ(通称牛T)は牛を主題にして毎年異なったデザインで作成されるため、島外にもファンが多い。
    青ヶ島村では近年、下記のような観光スポットも整備されてきているが、船は欠航が多く、ヘリは定員が少ないという往来の困難さゆえに観光目的で島を訪れる人は年間900~1800人程度である。
  • 大凸部(おおとんぶ)
    外輪山にある島の最高峰で、標高は423.0mある。ここからは青ヶ島の見事な二重カルデラの地形を見渡すことができる。
  • 尾山展望公園
    周辺を巡るハイキングコースのほか、展望公園には夜に星空を観察できるよう、足下を照らす照明が整備されている。ここからも青ヶ島の二重カルデラの地形をきれいに見渡すことができる。
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尾山展望公園から見る丸山
  • 丸山(オフジサマ)
    天明の大噴火1785年)でできた内輪山。近年整備されたハイキングコースにそって内輪山を1周することができる。
  • ふれあいサウナ
    火口跡付近で噴霧する天然の水蒸気によるサウナ。含有成分はないが温泉法第2条の定義に基づくれっきとした温泉である。有料。
  • 池の沢キャンプ場
    ふれあいサウナ近くにあるキャンプ場。飲み水が無いので用意して行くか、村落まで汲みに行く必要がある。「ひんぎゃ」を利用した天然の蒸し器がある。「ひんぎゃの塩」はここにある製塩所で作られている。
  • 三宝港の温泉
    三宝港待合所屋上に、海中から汲み上げた無料温泉がある。湯張り・清掃は各自で行う。水着着用の事。
  • 神子の浦(みこのうら)展望広場
    昔の青ヶ島の人々は、ここから見下ろされる神子の浦の浜を上陸や荷揚のために使っていた。神子の浦へ降りる断崖絶壁の道は今は崩落して通行できないが、ここから黒潮の流れを見下ろすことができる。

神社は大里神社、東台所(とうだいしょ)神社など、寺院は清受寺がある。(青ヶ島#社寺を参照

その他、いわゆる観光スポットではないが、

  • 三宝港のゴンドラ
  • 池の沢から平成流し坂トンネルへ向けての急坂とその旧道
  • 崩落した大千代港とその復旧工事の足場
  • 三宝港から集落に向かう都道の崩落箇所

などがある。

青ヶ島を描いた作品

関連する人物

出身者

その他

島外出身者だが、公募により2002年から2005年まで教育長をつとめた。
母親の出身地であり祖母が在住。祖母は青酎を製造している。青ヶ島村公式サイトにおいて「篠原ともえ 青ヶ島 星の魅力を語る」の特集コーナーが開設されている。2010年には島でライブを開催した。

脚注

  1. 広報あおがしま 2014年1月15日号
  2. 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 13 東京都』、角川書店、1978年、ISBN 4040011309より
  3. 日本加除出版株式会社編集部『全国市町村名変遷総覧』、日本加除出版、2006年、ISBN 4817813180より
  4. 菅田正昭伊豆七島と伊豆諸島
  5. 図典 日本の市町村章 p86

外部リンク

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