ドイツ再統一
ドイツ再統一(ドイツさいとういつ、テンプレート:Lang-de、テンプレート:Lang-en)とは、1990年10月3日、ドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland、「西ドイツ」)にドイツ民主共和国(Deutsche Demokratische Republik、「東ドイツ」)が編入された出来事である。東西ドイツ統一とも呼ばれる。
呼称
日本ではこの東西ドイツ統一を指して単に「ドイツ統一」と呼ばれる事があるが、ドイツ史における歴史的文脈では、プロイセン王国が主導したドイツ帝国の成立(1871年1月18日)が近代ドイツ国家の原点としてより重要視されており、この1990年の出来事については「ドイツ再統一」として用語上区別される事に注意を要する。
「ドイツ再統一」という表現の法的な問題点
西ドイツは建国以来「憲法(Verfassung)」を持たず、「基本法(Grundgesetz)」をもって憲法に代えていた。その理由は、「やがて東ドイツを含めて統一する暁に初めて憲法を持つことにする」との意志を持っていたからで、このことは基本法146条に明記されていた。
しかし、実際に東ドイツが1989年のベルリンの壁崩壊で自壊現象を起こしてしまうと(→東欧革命)、西ドイツはこの基本法上の規定を無視して、新たな州の「加盟」を認める基本法第23条の手続き[1]を利用して、東ドイツにある5つの州[2]および都市州ベルリンが西ドイツ(「連邦」共和国)に新たに「加盟」するという形式で国家統一を成し遂げた。そのため厳密に言えば、法的にはドイツは「再統一」したのではなく、西ドイツが東ドイツを自国に「編入」した、あるいは東ドイツ地域の各州がドイツ連邦共和国に「加盟」したとしか言えず、この点をマスメディアは東ドイツは西ドイツに買い取られたものと報道している。
また、このことは再統一に至る過程において憲法ないし基本法そのものをめぐる議論の機会が欠如していたことを意味しており、憲法をめぐる国民的議論を経た上で新国家を樹立すべきだったとの批判も存在する[3]。
ベルリンの壁崩壊から再統一までの経過
- 3月18日 - 東ドイツにて自由選挙が実施され、ドイツ統一を主張する保守連合「ドイツ連合」が勝利する。
- 5月5日 - 東西ドイツと米英仏ソの6ヶ国外相会議が開催される。
- 5月18日 - 西ドイツと通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約を調印する。
- 7月1日 - 通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約が発効し、東ドイツに西ドイツの通貨・ドイツマルクが導入される。
- 7月17日 - 6ヶ国外相会議で、統一ドイツの北大西洋条約機構への加入を確認する。
- 7月23日 - 東ドイツの県が廃止され州が復活される。
- 8月23日 - 人民議会で東ドイツ5州の西ドイツ加盟が決議される。
- 8月31日 - ドイツ再統一条約が調印される。
- 9月12日 - ドイツに関する最終規定条約が調印される。
- 10月3日 - 西ドイツ基本法23条に基づき、東ドイツの州が西ドイツに加入する。
再統一後の問題点
ドイツは40年に亘って分断され、旧東西両国が資本主義と共産主義という違った経済体制を敷いていたため、旧西ドイツと旧東ドイツでは大きな経済格差があった。旧東ドイツは東側の社会主義国の中では一番経済が発展していた「社会主義国の優等生」ではあったが、それでも世界屈指の経済大国である旧西ドイツとの差は非常に大きかったと言われる。その影響は現在に至るまで続き、再統一後のドイツはアメリカ一極体制の席巻も重なって深刻な不況に襲われた。
コール首相は、整理解雇請負会社「ドイツ信託公社」に依頼し、旧東ドイツ国営企業の民営化や大規模な整理解雇を行った。
旧西ドイツでは経済混乱に足をすくわれ、統一の際に1:1での通貨交換をしてしまったため、5000億マルク(当時の日本円にして約3兆5000億円)が吹き飛び、赤字転落してしまった。また、旧東ドイツでは、民営化された国営企業の相次ぐ倒産により失業者数が増加した。 そのあおりで極右政党が移民排斥を主張すると、失業者と競合する国民の共感を得る傾向にあり、東西ドイツ時代には封じられていたネオナチ思想も、格差の残る旧東ドイツを中心に息を吹きかえした。再統一後も旧東ドイツへの援助コスト増大などによって、旧西ドイツの経済は圧迫を強いられた。2006年ごろには景気回復の兆しを見せたが、世界金融危機 (2007年-)により、再び不況に陥った(欧州全体が世界金融危機の影響を受けており、ドイツだけが特別ではない)。2010年に欧州連合が経済危機に陥ったギリシャへの金融支援を検討した際、最も強く反対したのは20年近くの不景気にあえぎ続けていたドイツであった。
2007年10月、ドイツの世論調査会社の調査によると、「東西に分断されていた頃の方が良かった」と答えた人は全体の19%に上るなど、必ずしも全てのドイツ人がドイツ再統一を歓迎していない実態が明らかとなった[4]。
脚注
関連項目
- 再統一後のドイツの歴史(独語版)
- 独立国家共同体
- 平成(冷戦後の日本)
- アメリカ合衆国の歴史 (1991-現在)
- 総統民選期の中華民国(冷戦後の台湾)
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- ↑ この条文は本来、第二次世界大戦後にドイツから分離されたザール地方の復帰を想定して盛り込まれたものであった。実際にザールはこの条文の規定に基づき、1957年1月1日にドイツ連邦共和国への「加盟」を果たし、ザールラント州となっている。なお、同規定はドイツ再統一が実現した後に廃止された。
- ↑ ただし、東ドイツでは州が廃止され14の「県 (テンプレート:Interlang)」 に改組されていたため、再統一に際して州を復活させた上で、各州議会において西ドイツへの加盟を決議するという手続きをとった。
- ↑ 代表的な論者としては、例えばユルゲン・ハーバーマスがいる。
- ↑ テンプレート:Cite news