「川口浩 (俳優)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
(相違点なし)

2014年7月10日 (木) 11:09時点における最新版

テンプレート:ActorActress

川口 浩(かわぐち ひろし、1936年(昭和11年)8月22日 - 1987年(昭和62年)11月17日)は、映画俳優タレント探検家東京府(現・東京都)生まれ。父は作家で大映専務の川口松太郎、母は女優の三益愛子。妻は女優の野添ひとみ。弟は元俳優の川口恒[1]、川口厚。妹は元女優の川口晶(現在は陶芸家の国重晶)。

来歴・人物

慶應義塾高等学校中退後、俳優座演劇研究所に入学。1956年(昭和31年)、映画『裁かれる十代』でデビュー。同年、初の主演作『処刑の部屋』で注目を集める。以降、大映現代劇の若手二枚目トップスターとして多くの映画に主演し、京マチ子若尾文子山本富士子岸恵子らと共演。映画代表作に増村保造監督の『巨人と玩具』『妻は告白する』、小津安二郎監督の『浮草』、市川崑監督の『おとうと』などがある。

1960年(昭和35年)、野添ひとみと結婚。元々、松竹音楽舞踊学校出身で松竹でデビューした野添だったが、その頃から交際を始め、父・松太郎に頼みこみ大映に移籍させた。映画での共演作も多く、数年越しの交際を実らせての結婚だった。その後は娘2人をもうけ、おしどり夫婦として知られた。

1962年(昭和37年)に大映退社後は、実業家への転身を図る。不動産管理会社である株式会社川口エンタープライズを設立しアメリカ西海岸などへ集合住宅の視察へ赴いた。父・松太郎邸の広大な敷地を利用し総工費7億円を費やし1964年(昭和39年)10月1日に開業した自宅兼デラックス賃貸及び分譲マンションである川口アパートメントの運営を執り行った。同アパートメントの入居者として1960年代には栗原玲児藤村有弘水谷八重子水谷良重親子、1970年代に差し掛かる頃には加賀まりこ安井かずみ、また1972年(昭和47年)より千葉真一野際陽子夫妻が住んだことで知られる。

1967年(昭和42年)には芸能界に復帰し、二束の草鞋を履いた。同年、株式会社川口プロモーションを設立。

復帰後はテレビへと活躍の場を移し、1969年(昭和44年)からはテレビドラマキイハンター』にレギュラー出演。フジテレビ競馬中継の司会・解説を務めるかたわら、1970年(昭和45年)、川口浩探検隊の前身の『ザ・ショック!!』(日本テレビ系)を企画・出演。

1976年、三男の厚が自身の結婚を機に早々と俳優業に見切りをつけ引退。以後はマネージャーやプロデューサーなどの「裏方」として芸能界に関わっていく。1978年5月21日、次弟・恒が大麻コカインLSDで逮捕(懲役10ヶ月、執行猶予3年の判決)。6月6日、厚が大麻・LSDで逮捕(懲役10ヶ月、執行猶予3年の判決)。6月26日、妹・晶もLSDで逮捕(書類送検・起訴猶予)。マスコミでは「川口一家の麻薬汚染事件」と報じられ、これを契機に恒は俳優業を引退。晶は1982年、母・三益愛子の死去をきっかけに芸能界から引退している[2]

1977年(昭和52年)からは『水曜スペシャル』(テレビ朝日系)で「川口浩探検隊」が放送開始、シリーズ全43回に及ぶ人気を博した。長らく再放送の機会もなく、映像ソフト化の進展もなかったが、2005年(平成17年)1月26日ユニバーサルミュージックからシリーズ中6本が初めてDVD化され、発売された[3]。また、2007年には日本文芸社より未確認生物編の5話が山口正人によりコミック化、Gコミック『漫画川口浩探検隊 未確認生物編』として発売されている[4]。番組内で毒蛇や毒蜘蛛に襲われたり、底なし沼にはまる、隊員たちが新たな脅威を発見し「隊長!」と叫ぶなどのシーンの多くは、あくまで「演出」であり(ただし、視聴者は「ドキュメンタリー」ではなく「エンターテインメント」として、その意図的で毎回おなじみな演出をも含めて理解し、楽しむ番組だった)、後に嘉門達夫がこれを皮肉った曲『ゆけ! ゆけ! 川口浩』(1984年)を歌いヒットさせた[5]。このような過剰な演出が現在も回顧される一方で、DVD発売時の特番で、元・番組スタッフが語ったコメントでは、ジャングルなどの辺境など過酷な環境でのロケは命がけであったことが述懐されている。実際に、1983年(昭和58年)6月に放送された『恐怖!ブラジル魔境に人食いピラニア大軍団を追え!逆襲死闘』で、川口はピラニアに指を噛まれて負傷。後に出演したバラエティ番組ではこの時の傷跡を公開している。

競馬ファンとして知られ、フジテレビの『競馬中継』の司会を長く務めたのみならず、自身もマルガリータマスカラーダ[6](1974年第8回ステイヤーズステークス2着)など中央競馬でも競走馬を所有していた。

しかし晩年は両親・親類・家族が相次いで亡くなるなど不幸が続いた。

1982年(昭和57年)に母・三益愛子が、翌1983年(昭和58年)に次女が血小板減少性紫斑病のためわずか17歳で死去。1985年(昭和60年)に父・松太郎が亡くなるのと同時に本人も胃癌と診断され、手術後に闘病生活に入り一時は癌を克服する。

1987年(昭和62年)、自宅で食事が喉に痞え嘔吐したため病院で検査したところ食道癌喉頭癌が発覚、再手術を行うも食道癌を除去した際の副作用で腎不全肺炎を併発し同年11月17日に死去。テンプレート:没年齢。川口本人は肉親や家族が病で亡くなっていることを気にしており、ほぼ半年毎に健康診断を受診していた。特に両親である松太郎と三益は2人とも生前に癌を患っており川口自身も癌には特に気を付けていたものの早期発見することはできなかった。尚、喉頭癌については直接の死因とはならなかったが「役者の命である声を失うわけにはいかない」という川口本人の意向で最後まで手術を行わなかった。

1995年(平成7年)5月4日、妻・野添ひとみが甲状腺ガンのため死去。テンプレート:没年齢。川口が病魔に侵される数年前にはのう胞を患うなど病気がちだった。

2008年(平成20年)9月17日、四兄妹の三男で、元・俳優[7]、1986年から2004年まで明治座プロデューサーを務めた川口厚が脳内出血のため57歳で死去[8]

出演作品

映画

ドラマ

バラエティ・その他

ほか多数

関連項目

脚注

  1. かわぐち ひさし(1945年3月12日 - )俳優引退後はレストラン経営など、実業家に転身した。2014年現在、父・川口松太郎に関する公式サイトを2011年11月1日に開設し、管理・運営を行っている。 テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite news
  4. ISBN 978-4537153996
  5. 嘉門が1983年に上岡龍太郎から、川口+野添夫妻が公開生番組『ノックは無用』(上岡は同番組の司会を横山ノックと長年勤めていた)のゲストに来ると訊き、放送日に関西テレビに行き、デモテープを渡すと川口は興味深く話を聴き、面白がって、後日、即座にレコード化の承諾をした手紙が届いたというエピソードがある。(嘉門達夫の談話より)
  6. マスカラーダ JBISサーチ
  7. ドラマ『シークレット部隊』で三浦友和と共演して以来、三浦と懇意にしており、一時期は一緒にバンドを組んだり、マネージャーを務めていた事もある。
  8. テンプレート:Cite news