鳥羽・伏見の戦い

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 鳥羽・伏見の戦い
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | Encounter of Toba
Encounter of Fushimi
Encouter of Tominomori
上段:小枝橋の戦い。左側:旧幕府軍、右側:薩摩軍
中段:高瀬川堤での戦闘。左側:桑名藩などの旧幕府軍、右側:長州・土佐軍
下段:とみのもりの遭遇戦。左側:旧幕府軍、右側:薩摩軍
戦争戊辰戦争
年月日:(旧暦慶応4年1月3日 - 慶応4年1月6日
グレゴリオ暦1868年1月27日 - 1868年1月30日
場所山城国鳥羽・伏見(現在の京都市南区伏見区
結果:新政府軍の勝利、戊辰戦争の勃発
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 25x20px 新政府軍 25x20px 旧幕府軍
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 25x20px 仁和寺宮嘉彰親王 25x20px 竹中重固
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 約5,000 約15,000
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 約110 戦死 約280 戦死

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鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、慶応4年1月3日 - 6日1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の緒戦となった戦である。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。

背景

ペリー来航以来、国内の不安定化が進む中、薩摩藩は有力諸侯による合議態勢を模索するが、幕府、関係諸藩との見解の一致は困難であった。 武士階級は上位者に判断を委ねる構造で安定してきた為、余程の事態にならない限り、自身の職責の埒外を公然と論じる事はおろか、知ること、考える事ですら、ともすれば悪徳となっていた。 宗家、親藩、譜代にとっては、特に従前の組織の運営と維持が義務であり美徳であった。 一方、外様で体制の末端におかれた下級武士の間では国学が流行しつつ有った。 彼らは当初攘夷を唱え、危機にあたって対応できない幕府への危機感を募らせた。しかし、国学はイデオロギーにすぎず、西洋諸国に対する客観的な状況を示すものではなく、夢想的な攘夷論が流行した。 西国においては洋学に明るい者が幕藩体制の変革を訴え始め、幕府はこれを弾圧した。(安政の大獄)

国内の不安を背景に、朝廷は政争の舞台となり、京都では攘夷派によるテロが横行するようになる。幕府は徳川系の親藩で大きな武力を持つ会津藩、桑名藩などに命じてこれを厳しく取り締まったが、これは安政の大獄と同じく、対症療法に過ぎなかった。 当初過激な攘夷論を背景に幕府と鋭く対立した長州は無謀な下関戦争や俗論派と正義派との争いを経て、正義派(自称であり、彼らが誰から見ても「正義」である訳ではない。)が勝利し、尊皇倒幕の方向で藩論を一致させる。長州征討の失敗は、幕藩体制の限界と弱体化を白日のもとに晒し、幕府の威信を大きく低下させた。 薩英戦争で挙藩一致を見た薩摩藩は、幕藩体制下での主導権獲得策を見限り、武力による新政権の樹立へと方向転換する。 一方、幕府の主要な構成層には、未だに情勢に明るいものが殆どおらず、意思統一は困難であった。大半の幕臣にとって、大政奉還こそが、初めて自身に降りかかった火の粉となった。

慶応3年(1867年)10月13日、長州派の下級公家であった岩倉具視の働きかけにより、倒幕及び会津桑名討伐の密勅が下る。この動きに対し、同14日、かねてより山内容堂より建白の有った徳川慶喜大政奉還を上表した。これは薩長による武力倒幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという構想だったと見られている。 外交能力を保たない朝廷は、徳川慶喜に引き続きこれを委任、思惑は成功したかに見えたが、諸国の大名が様子見をして上京しないまま諸侯会議は開かれず、旗本の中には無許可で上京してくるものも相次いだ。 そして、在京の幕府配下諸軍から見れば、薩長軍は長年取り締まってきた反乱軍であり、敗北は破滅を意味した。 いずれにせよ、倒幕の大義名分は消失し、京都においても幕府武力は健在な儘となった。

これに対し、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの倒幕派は12月9日に王政復古の大号令を発し、前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地を命じた。翌日、徳川家親族の新政府議定松平春嶽徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶喜に通告した。慶喜は謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能と返答した。幕府の退勢を知らない幕臣の暴走を懸念した慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じつつ、12月12日深夜には政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て、翌日、大坂城へ退去している。春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地を実行するだろうという見通しを総裁有栖川宮熾仁親王に報告する。しかし大坂城に入ったあと慶喜からの連絡が途絶えた。

12月23日と24日にかけて政府においてこの件について会議が行われた。参与の大久保利通は慶喜の裏切りと主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、春嶽は旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。再度松平春嶽徳川慶勝が使者にたてられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れた。近日中に慶喜が上京することも合意され、この時点まで、慶喜は復権に向けて着実に歩を進めていた。

先の10月13日及び14日の討幕の密勅は江戸の薩摩邸にも伝わり、討幕挙兵の準備と工作活動が行われていたが、直後の大政奉還で、10月21日に討幕の密勅が取り消される。その討幕挙兵中止命令と工作中止の命は江戸の薩摩邸にも届いたが、動き出した攘夷討幕派浪人を止めることはできずにいた。度重なる騒乱行動を起こした攘夷討幕派浪人を薩摩藩邸は匿っていたために12月25日に庄内藩江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きる。28日にこの報が大阪に届くと、慶喜の周囲ではさらに「討薩」を望む声が高まった。慶応4年(1868年)元日、慶喜は討薩表を発し、1月2日から3日にかけて「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始した。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。

慶喜出兵の報告を受けて朝廷では、1月2日に旧幕府軍の援軍が東側から京都に進軍する事態も想定して、橋本実梁を総督として柳原前光を補佐につけて京都の東側の要所である近江国大津滋賀県大津市)に派遣することを決めるとともに、京都に部隊を置く複数の藩と彦根藩に対して大津への出兵を命じた。だが、どの藩も出兵に躊躇し、命令に応えたのは大村藩のみであった。渡辺清左衛門率いる大村藩兵は3日未明には大津に到着しているが、揃えられた兵力はわずか50名であった[1]

1月3日(1月27日)、朝廷では緊急会議が召集された。政府参与の大久保利通は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、政府議定の松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾したが、政府議定岩倉具視が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。

経過

鳥羽・伏見での戦闘

3日夕方には、下鳥羽や小枝橋付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽方面での銃声が聞こえると伏見(御香宮)でも衝突、戦端が開かれた。このときの京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた。鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれ、伏見では奉行所付近で幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍(薩摩小銃隊)の大隊規模(約800名)に敗れ、奉行所は炎上した。

ファイル:Yodokoj7.jpg
戊辰戦場址碑

近江方面

一方、旧幕府軍では伊勢方面から京都に向けて援軍として騎兵1個中隊と砲兵1個大隊が発進していたが、1月3日夜になって大津に潜入していた偵察から既に大津には新政府軍が入っているとの報告が入った。これは大村藩兵50名のことであったが、旧幕府軍の援軍は大津に新政府軍が結集していると誤認して大津から京都を目指す事を断念し、石部宿から伊賀街道を経由して大坂に向かうことになった。4日になると、朝廷から改めて命令を受けた佐土原藩岡山藩徳島藩の兵が大津に入り、彦根藩もこれに合流した。これによって5藩合わせて700名となり、6日は更に鳥取藩兵と参謀役の木梨精一郎(長州藩)を大津に派遣するも、新政府側が危惧したこの方面からの旧幕府軍の侵攻は発生しなかった[1]

近江方面の戦況について、大久保は5日付の蓑田伝兵衛宛の書状で、井伊直弼などを輩出した譜代の大藩である彦根藩の旧幕府からの離反に皮肉を込めつつも、彦根藩が味方に付いたことで背後(近江側)の不安がなくなり、旧幕府軍支配下の大坂から京都への物資の流入が止まったとしても、近江から京都への兵糧米の確保が可能になったと記している。また、東久世通禧も後になって大村藩が素早く大津を押さえたことで、旧幕府軍からの京都侵攻とこの戦いで未だに態度を決しかねていた諸藩部隊の新政府からの離反を防いだこと、同藩が大津にある彦根藩の米蔵にある米の新政府への借上げを交渉したことなどをあげて、大村藩の功労が格別であったことを述べている[1]

淀の戦い

翌4日は鳥羽方面では旧幕府軍が一時盛り返すも、指揮官の佐久間信久らの相次ぐ戦死など新政府軍の反撃を受けて富ノ森へ後退した。伏見方面では土佐藩兵が新政府軍に加わり、旧幕府軍は敗走した。また同じ4日に朝廷では仁和寺宮嘉彰親王征討大将軍に任命し、錦旗を与え、新政府軍がいわゆる官軍となる(岩倉具視・薩摩藩は錦旗となる旗を事前に作成しており、戦闘に際して朝廷にこれの使用許可を求めたことをもって「薩長は錦旗を偽造した」とする説もあるが、朝廷の許可の結果掲げられたものであり、偽造説は公正さを欠いているが、天皇の許可を経たものではないとされる。)。

5日、伏見方面の旧幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃したが敗退し、鳥羽方面の旧幕府軍も富ノ森を失う。そこで現職の老中でもあった稲葉正邦淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとした。しかし淀藩は朝廷及び官軍と戦う意思がなく、4日朝までとは異なり城門を閉じ旧幕府軍の入城を拒んだ(ただし、藩主である老中稲葉正邦は当時江戸に滞在しており、藩主抜きでの決定であった)。入城を拒絶された旧幕府軍は、男山・橋本方面へ撤退する。また、この戦闘で新選組隊士の3分の1が戦死した。

橋本の戦い

6日、旧幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方歳三率いる新選組の主力などを擁する旧幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川、南に小浜藩が守備する楠葉台場を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。

しかし、対岸の大山崎高浜台場を守備していた津藩が朝廷に従い、旧幕府軍へ砲撃を加えた。思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。また、この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷(のち死亡)を負ったとされる。

影響

6日、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍へ大坂城での徹底交戦を説いたが、その夜僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還した。際して会津藩軍事総督の神保長輝は戦況の不利を予見しており、ついに錦の御旗が翻るのを目の当たりにして将軍慶喜と主君容保に恭順策を進言したとされ、これが将軍の逃亡劇の要因を作ったともいわれる。だが長輝にとっても、よもや総大将がこのような形で逃亡するとは思いもしなかったという向きもある。陣営には長輝が残ることとなったが、元来、主戦派ではなかったため、会津藩内の抗戦派から睨まれるかたちとなり敗戦の責任を一身に受け、後に自刃することになる。

7日、朝廷において慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵とされた。9日、新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となった。1月中旬までに西日本諸藩および尾張・桑名は新政府に恭順する。1月25日、列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。2月には東征軍が進軍を開始する。

多数であった筈の旧幕府軍の敗北について、井上清は「幕府陸軍を除く幕府方諸藩の兵が旧式劣悪であったこと」「旧幕府軍も新政府軍も依然として身分制軍隊であったが後者の方が軍制改革が進んでいたこと」「旧幕府兵には農民からの強制徴集者や江戸の失業者などの貧困層(市儈遊手の徒)が多く士気が低かったこと」「新政府軍に対する民衆の支持」を4点を挙げている[2]。石井孝は井上の最後の「民衆の支持」に対しては否定するとともに、新政府軍の火力の充実と旧幕府軍の兵士の技量の低さを最大の要因とする[3]。一方、大山柏も火力の差が原因であることは井上と同様であるが、その原因を旧幕府軍の指揮官の火力に関する知識の低さに求めている[4]。水谷憲二はこれらの見解に一定の評価を与えながらも、新政府軍が早い段階で江戸など東日本との交通・物流の要所である近江国大津を早い時期に掌握して京都に向かう旧幕府軍への援軍・物資の動きを阻害しただけでなく、新政府軍の兵站を確保できた重要性を指摘している[5]

旧幕府方は1万5000人の兵力を擁しながら緒戦にして5000人の新政府軍に敗れたが、これは新政府軍が圧倒的な重火器を擁していたことが大きい。テンプレート:要出典 両軍の損害は明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑』によると新政府軍約110名、旧幕府軍約280名といわれている。以後、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北陸地方東北地方での北越戦争会津戦争箱館戦争として続く。

史跡

伏見奉行所跡
京都市伏見区。新選組をはじめとする幕府軍が駐屯した。近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩七分。京阪本線伏見桃山駅より徒歩十分。現存は石碑のみ。
御香宮神社
京都市伏見区。新政府軍が陣所とし、眼下の伏見奉行所を攻撃した。近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩四分。京阪本線伏見桃山駅より徒歩七分。現存。
東本願寺伏見別院
京都市伏見区。会津藩の陣所。京阪本線伏見桃山駅より徒歩十分。近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩十三分。現存は石碑のみ。
文相寺
京都市伏見区。「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑を残す。京阪本線淀駅より徒歩十五分。現存。見学可能。
長円寺
京都市伏見区。正門前に「戊辰役東軍戦死者之碑」、敷地内に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」を残す。京阪本線淀駅より徒歩十五分。現存。見学可能。
淀城
京都市伏見区。譜代大名稲葉氏の居城。桂川宇治川木津川の三川が合流する水路の要所として、徳川の信任厚い稲葉家が陣取った。鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍の入城要請を拒絶した。京阪本線淀駅より徒歩一分。現存は城壁、「淀城址」の碑、「田辺治之助君記念碑」のみ。敷地内は公園になっている。見学可能。
妙教寺
京都市伏見区。元淀城本丸があった場所。境内に「史跡淀古城戊辰役砲弾貫通跡」の碑と「戊辰役東軍戦死者之碑」、本堂に「東軍戦死者の位牌」を残す。砲弾が貫通した壁も現存。京阪本線淀駅より徒歩二十分。見学可能。
戊辰役東軍西軍激戦之地碑
京都競馬場の駐車場入り口脇。現場にあった幕軍戦死者の埋骨碑を駐車場工事で撤去しようとしたところ、事故が相次ぎ戦死者の祟りとの噂まで出た。そのため撤去を中止し、横に慰霊碑を建てることにした。慰霊碑の碑面には以下の文面が記されている。
「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない それが日本人同族の争いでもあり 幕軍・官軍のいずれもが正しいと信じたるままそれぞれの道へと己等の誠を尽した 然るに流れ行く一瞬の時差により或るは官軍となり又或るは幕軍となって士道に殉じたので有ります  ここに百年の歳月を閉じ 其の縁り有る此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対し今慰霊碑の建つるを見る 在天の魂依って瞑すべし 昭和四十五年」

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P274-277
  2. 井上『日本現代史』第1巻(東京大学出版会、1951年)P289-291
  3. 石井『維新の内乱』(至誠堂、1968年)P39-43
  4. 大山『戊辰役戦史』上巻(時事通信社、1968年)P106-107
  5. 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P4-5・33

関連項目

外部リンク