松平春嶽

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松平 春嶽(まつだいら しゅんがく)は、幕末から明治時代初期にかけての大名、政治家。第16代越前福井藩[1]

春嶽はで、慶永(よしなが)である。他に礫川、鴎渚などの号を用いたが、生涯通して春嶽の号を最も愛用した。

田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男。松平斉善の養子。将軍徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末四賢侯の一人と謳われている。

経歴

藩主就任まで

江戸城内の田安屋敷に生まれる。幼名は錦之丞。錦之丞は伊予松山藩主・松平勝善の養子となることが以前より内定しており、天保8年(1837年)11月25日には正式決定した。

天保9年(1838年)7月27日に越前福井藩主・松平斉善が若年で突然死去した。跡継ぎがいないことから、福井藩先々代藩主・松平斉承の正室・松栄院(浅姫・徳川家慶異母妹)や第12代将軍で斉善の兄の徳川家慶の計らいにより、9月4日付で急遽松平錦之丞が養子とされた。この手続きの整合性と正当性のため、越前国許からの斉善死去報告の使者は9月2日には江戸に到着していたが、「(国許での)斉善死去は8月28日。(だがそれとは知らないまま)江戸での養子縁組承認は9月4日。国許よりの使者到着は9月6日(に急使が到着した、とするなら、死亡日付は逆算して8月28日頃が都合がよいという設定)。」とされた。10月20日に正式に越前松平家の家督を継承。わずか11歳で福井藩主となる。12月11日に元服し、将軍・徳川家慶の偏諱を賜り、慶永と名乗る。翌天保10年(1839年)1月10日に位記・口宣の通知があり、1月11日、日野前大納言邸において正四位下少将の官位官職が与えられた。

天保10年(1839年)2月頃より、慶永と肥後熊本藩主・細川斉護の娘・勇姫との縁談交渉が越前藩より持ちかけられ、4月6日には幕府の内諾があり、5月27日正式に承認された。

同じく天保10年(1839年)2月より、全藩士の俸禄三年間半減と、藩主自身の出費五年削減を打ち出し、財政基盤を盤石にすることに努めた。天保11年(1840年)1月、藩政の旧守派の中心人物であった家老・松平主馬が罷免され、以降の藩政は中根雪江らの改革派が主導権を握った。中根雪江や由利公正橋本左内らの補佐を受け、翻訳機関洋学所の設置や軍制改革などの藩政改革を行う。

嘉永6年(1853年)、アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた際には、水戸徳川家徳川斉昭薩摩藩主の島津斉彬と共に海防強化や攘夷を主張するが、老中阿部正弘らと交流して開国派に転じる。

将軍継嗣問題

第13代将軍・徳川家定の継嗣問題では、橋本左内を京都に派遣して運動させ、一橋徳川家当主の徳川慶喜を後押しする。幕閣では紀州徳川家の徳川慶福(のちの家茂)を推す南紀派彦根藩主の井伊直弼大老となり、将軍世子は慶福に決定する。幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は徳川斉昭らとともに登城をして抗議したが、安政5年(1858年)7月5日、不時登城の罪を問われて強制的に隠居させられ、謹慎の処罰を受けた。

明治維新まで

井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると幕府の政策方針も転換し、春嶽は文久2年(1862年)4月に幕政への参加を許される。

朝廷では島津斉彬の死後、その弟の島津久光が兵を率いて京都へ上洛し、政局に積極的に関わっていた。久光は勅使の大原重徳とともに江戸へ下り、慶喜を将軍後見職とし、春嶽を大老とすることを要求した。文久2年7月9日1862年8月4日)、春嶽は新設の政事総裁職に就任し、慶喜とともに京都守護職の設置、陸奥会津藩主・松平容保の守護職就任、将軍・徳川家茂の上洛など公武合体政策を推進する(文久の改革)。春嶽は熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え、藩政改革や幕政改革にあたって彼の意見を重視した。

翌文久3年(1863年)には上洛するが、京都では長州藩など尊王攘夷派の勢力が強く、慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとすると反対して3月2日4月19日)に政事総裁職を辞任する。

6月、先月中から横井小楠主導で進められてきた「挙藩上京計画」が発表される。福井城中に全藩士を集めて発表されたこの計画は、「天下に大義理を御立通し成され候御趣意」とし、春嶽および藩主・松平茂昭を筆頭に、藩重臣の全て・動員できる最大兵力を動員し、「身を捨て家を捨て国を捨る」「一藩君臣再び国に帰らざる覚悟」をもって、つまり越前を捨てて全軍で京都に出兵し(日本を)制圧。朝廷・幕府どちらにもつかず、政局内の過剰な対立を武断をもって鎮圧し、しかるのち速やかに両勢力を合議し、広く才能ある人材を登用し、早急かつ緩やかな改革を推し進めようとするものであり、薩摩藩と連携しつつ熊本藩・加賀藩などにも加勢を頼み、天皇もこれを了承していたとの話が伝わる。福井藩の天下掌握宣言ともいえるこの計画に、日本中、特に京洛中の諸氏諸藩は騒然となったが、藩内外の反対派の活動や他藩や朝廷・幕府との連携がほころび、決行直前の8月半ばに急遽中止となった。これより越前家関連の諸方は、朝廷を蔑ろにしたとして、主に勤皇の士のテロに悩まされることになる。

会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変で長州藩が追放され、禁門の変で長州藩が朝敵となると参預に任命され、諸勢力に促される形で11月に再度上洛している。参預会議の体制は、参預諸侯間の意見の不一致からなかなか上手く機能せず、この状況を危惧した朝廷側の中川宮は、問題の不一致を斡旋しようと文久4年2月16日1864年3月23日)、参預諸侯を自邸に招き、酒席を設けた。この席上、泥酔した徳川慶喜は中川宮に対し、島津久光・松平春嶽・伊達宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と発言した。この言葉に島津久光が完全に参預会議を見限る形となり、松平春嶽や薩摩藩家老の小松帯刀らが関係修復を模索するが、元治元年2月25日4月1日)に山内容堂が京都を退去、3月9日4月14日)に慶喜が参預を辞任し、結局体制崩壊となった。

元治元年2月15日(1864年3月22日)には軍事総裁職に転じた容保に代わり京都守護職に就任する。しかし、4月7日には職を退いている。

慶応3年(1867年)、島津久光が送った西郷隆盛に促された前土佐藩主・山内容堂、前伊予宇和島藩主・伊達宗城が相次いで上京。当時京都に居た春嶽もまた、小松帯刀の説得を受け、この四者で四侯会議が開かれた。この合議制により、幕府の権威を縮小し、朝廷および雄藩連合による合議をもってこれに代えようと久光は画策していた。第1回の会合は5月4日6月6日)に京都の越前藩邸で開かれ、以降2週間余の間に徹夜も含めて8度会談は開かれた。朝廷関係者、一橋慶喜らを交えた会議では、兵庫開港や長州藩の処分について話し合われた。早々に諦めた容堂と違い、春嶽は長州征伐には最後まで反対するが、慶喜の巧みな懐柔により慶喜らの意見が勝利した。この会議の失敗以降、薩摩藩は強硬な倒幕側へ傾き、土佐藩は反対に幕府擁護の姿勢に傾き、慶喜に対しギリギリのタイミングで大政奉還を建白し、春嶽もまたこれに賛同している。12月9日1868年1月3日)の王政復古の宣言の前日、朝廷より議定に任命される。

維新後

王政復古後の薩摩長州討幕運動には賛成しなかった。維新後の新政府では内国事務総督、民部官知事、民部卿大蔵卿などを歴任。明治3年(1870年)に政務を退く。

明治23年(1890年)に小石川の自邸で死去、享年63。辞世の歌は「なき数に よしや入るとも 天翔り 御代をまもらむ すめ國のため 」。墓所は東京都品川区の補陀洛山海晏寺

死の翌年の明治24年(1891年)には佐佳枝廼社(越前東照宮)に春嶽の霊が合祀された。昭和18年(1943年)には春嶽を主祭神とする別格官幣社福井神社が創建された。

官位官職履歴

※日付は明治5年までは旧暦

栄典

人物・逸話

  • 幕末期に鋳造発行された貨幣「文久永宝」の文字は、当時幕府上位閣僚のうち能筆とされた3人の手による。この一部は、春嶽の筆である。「文久永寳」の寳の字が「宝」と略されている硬貨が春嶽の筆である。
  • 「明治」という元号は春嶽が命名した[2]
  • 著作に『逸事史補』がある。
  • 西洋のリンゴを初めて日本に導入したとされる。文久2年(1862年)、春嶽はアメリカ産のりんごの苗木を入手し、それを江戸郊外巣鴨の福井藩下屋敷に植えたのが最初とされる[3](ただし遡ること数年前、巣鴨近隣の板橋にあった加賀藩下屋敷にて先行の栽培記録がある)。
  • 島津斉彬(薩摩藩主)、山内豊信(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称された。しかし、慶永は後世において「世間では四賢侯などと言われているが、本当の意味で賢侯だったのは島津斉彬公お一人であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂公、鍋島直正公なども到底及ばない」と語ったといわれる。

家系

ほか

脚注

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関連項目

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外部リンク


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テンプレート:財務大臣
  1. 一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉えると第14代となる。
  2. NHK『その時歴史が動いた』「秘録・幻の明治新政府〜維新を変えた激動の27日間〜」2004年11月10日放送テンプレート:出典無効
  3. 『越前松平試農場史』