板倉勝静

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テンプレート:基礎情報 武士 板倉 勝静(いたくら かつきよ)は、幕末江戸幕府奏者番寺社奉行老中首座(筆頭)。備中松山藩の第7代藩主。板倉家宗家13代。

生涯

文政6年(1823年)1月4日、陸奥白河藩松平定永の八男として生まれた[1]備中松山藩の第6代藩主・板倉勝職婿養子となり、嘉永2年(1849年)閏4月6日に養父が隠居したため家督を継いだ。

農商出身の陽明学山田方谷を抜擢し、藩校有終館の学頭とした。彼の助言のもと藩政改革を行って財政を改善し、殖産興業で藩の負債を無くしただけなく余財をなし、軍政改革にも着手することができた。

安政4年、これが評価されて奏者番兼寺社奉行に任命された。しかし安政の大獄井伊直弼の強圧すぎる処罰に反対して、寛大な処置を行い、直弼の怒りを買って同6年に罷免された。直弼死後の文久元年(1861年)、再び奏者番兼寺社奉行として幕政に復帰した。翌年には老中に昇格し、幕末の混乱する政局の安定化に努めて、東禅寺事件を対処し、14代将軍徳川家茂の上洛に随行。生麦事件の賠償問題や、孝明天皇から受けた攘夷命令が不可能であった問題などから、一時、老中職を罷免されたが、慶応元年(1865年)に老中として再任された。第2次長州遠征では寛典論を主張したが、退けられた。

家茂没後も、15代将軍徳川慶喜から厚い信任を受け、老中首座兼会計総裁に選任された。そして幕政改革に取り組む一方で、慶応3年(1867年)、土佐の山内豊信が建言した大政奉還の実現にも尽力した。

戊辰戦争が起きると、鳥羽・伏見の戦いの敗戦の際、慶喜と大阪にいて、老中酒井忠惇会津藩松平容保桑名藩松平定敬らと共に開陽丸で江戸へ退却した。

藩主不在の備中松山藩はわずか5万石であり、新政府は隣の岡山藩32万石に錦の御旗を渡して松山討伐を命じていたので、苦境に陥った。留守を守っていた方谷は長州藩が攻めてきた場合には戦うつもりだったが、朝敵とされてしまったこともあり、松山の領民を戦火から救い、板倉家を存続させるためには、松山城を明け渡すしかないという考えで藩論が一致した。勝静と嫡男の万之進(勝全)は江戸から戻れなかったので、藩主は強制的に隠居させたことにして、板倉勝政の11男の勝弼を養子として新藩主に迎え、勤王派に鞍替えして投降した。

松山藩は岡山藩の管理下に置かれた。そこに鳥羽・伏見から熊田恰率いる松山藩隊150名が備中玉島に帰還。岡山藩は熊田の首級を要求し、慶応4年(1868年)1月22日、それを知った熊田は自刃して果てた。彼の潔い殉死によって松山は最終的に戦火から免れた。

一方で、江戸の勝静は、慶喜が朝敵とされたことから、1月29日、老中を辞し、2月19日、逼塞処分を受けた。3月、下野国日光山に屏居となった。新政府によって宇都宮藩に移され、英厳寺に軟禁されていたが、宇都宮戦争大鳥圭介の旧幕府軍によって解放され、同じ元老中小笠原長行と共に奥羽越列藩同盟の参謀となった。

勝静が旧幕府軍と行動を共にしていると知った新政府は態度を硬化して、松山藩は震え上がった。明治2年(1569年)2月、江戸開城で戻った嫡男の万之進(勝全)を宇都宮の新政府軍に引き渡すが、勝静自身はなおも抵抗を続けた[2]。勝静は、松平定敬や小笠原長行と共に旧幕府軍として五稜郭まで従い、同行した松山藩士も新撰組に加わって土方歳三の指揮下で戦っていた。

これはまずいと思った方谷は、松山藩士を知人のプロイセン商船に乗せて箱館に派遣し、勝静を半ば強引に江戸に連れ戻した。方谷は勝静を外遊させてほとぼりを冷まさせるつもりだったが、藩内では財政状況が思わしくなかったことから不満がでて、すぐに新政府へ自首謝罪するように求めることになった。明治2年(1869年) 5月25日、帰京した勝静は翌日自訴。8月15日、長男勝全と共に上野国安中藩で終身禁固刑となった[3]。翌月、2万石減封されながらも松山藩は再興され、岡山藩による軍政支配は終わった。

明治5年(1872年)1月6日、特旨で赦免された。勝静は方谷と勝弼を慰労し、勝弼が自分や藩士たちに遠慮して家督を長男に譲ることのないように指示している。晩年は明治9年(1876年)に上野東照宮の祀官となった。また、勝弼や三島中洲川田甕江[4]の協力を得て第八十六国立銀行(現在の中国銀行)を設立した。

明治22年(1889年)4月6日に死去した。享年66。

人物

  • 生前に勝静とは身分を越えた友人であった勝海舟は、「あのような時代(幕末)でなければ、祖父の(松平)定信公以上の名君になれていたであろう。巡り会わせが不幸だったとしか言いようが無い」と語っている。
  • 勝静が一番の信を置いた山田方谷は、黒船来航後の混乱を見て、既に幕府の滅亡が避けられないことを察していたので、勝静にはまず松山の領民のことを考えて欲しいと諫言した。だが松平定信の孫(8代将軍・徳川吉宗から数えれば玄孫にあたる)に生まれた勝静にとって、幕府(徳川将軍家)を見捨てることは出来ない相談であった。

年譜

※日付=旧暦

  • 弘化2年(1845年)12月16日、従五位下左近衛将監に叙任。
  • 嘉永2年(1849年
    • 閏4月6日、家督相続、備中松山藩主となる。江戸城雁間詰
    • 月日不詳、周防守に転任。
  • 嘉永4年(1851年)6月13日、奏者番に補任。
  • 安政4年(1857年)8月11日、寺社奉行を兼帯。
  • 安政6年(1859年)2月2日、寺社奉行・奏者番の両職を御役御免。
  • 万延2年1861年)2月1日、寺社奉行・奏者番を再役。
  • 文久2年(1862年
    • 3月15日、老中に異動。
    • 3月26日、従四位下に昇叙。周防守如元。
    • 4月11日、外国御用取扱を兼帯。
    • 5月15日、外国御用取扱の兼帯を止め、勝手掛を兼帯。
    • 6月1日、侍従を兼任
    • 9月11日、将軍・徳川家茂上洛に伴い、御供。
  • 文久3年(1863年
    • 2月13日、将軍・徳川家茂上洛に伴い供奉。
    • 6月16日、江戸に帰府。
    • 11月5日、将軍・徳川家茂上洛に伴い、江戸留守。
  • 元治元年(1864年
    • 6月18日、老中を免ず。江戸城雁間詰。
    • 8月13日、長州征伐山陽道先鋒となる。
    • 月日不詳、阿波守に遷任。侍従如元。
  • 慶応元年(1865年
    • 1月7日、長州征伐凱旋。
    • 10月22日、老中に再任。勝手掛を兼帯。伊賀守に遷任。
  • 慶応2年(1866年)
    • 1月6日、軍事取扱を兼帯。
    • 6月19日、老中首座となる。(水野忠精、老中御役御免に伴う)
    • 12月28日、勝手掛の兼帯御役御免。
  • 慶応3年(1867年
    • 9月23日、老中次座となる。(松平定昭の老中首座に伴う)
    • 10月19日、老中首座に再度なる。(松平定昭の老中首座辞職に伴う)
    • 12月30日、老中次座に再度なる。(酒井忠惇の老中首座に伴う)
  • 慶応4年(1868年
    • 1月10日、解官
    • 1月23日、内国御用取扱を兼帯。
    • 1月29日、老中御役御免。隠居。
    • 2月19日、逼塞処分を受ける。
    • 3月、下野国日光山に屏居。その後、奥州経由にて蝦夷箱館へ向かう。
  • 明治2年(1869年
    • 5月25日、帰京し、翌日自訴。
    • 8月15日、上野国安中藩に永預処分となる。
  • 明治4年(1871年)3月15日、備中高梁藩に移動し、禁錮処分となる。
  • 明治5年(1872年)1月6日、特旨をもって禁錮を許される。
  • 明治9年(1876年)11月15日、従五位に叙位。
  • 明治10年(1877年(明治10年)7月16日、東京の上野東照宮祠官に就任。
  • 明治13年(1880年)、従四位に昇叙。
  • 明治20年(1887年)、正四位に昇叙。

脚注

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参考文献

年表について
  • 日本史籍協会叢書続 『増補幕末明治重職補任』東京大学出版会、 1980年。
  • 新田完三 編『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年。
  • 美和信夫『江戸幕府老中首座就任者に関する考察』麗澤大学紀要第30巻、1980年12月。

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テンプレート:備中松山藩主
  1. 定永はこの年に伊勢桑名藩へ転封となった。
  2. 明治政府は備中松山藩に対し、勝静父子が降伏、もしくは死亡が確認されれば藩の存続は認めるが、それが確認できない限り宥免出来ないことを伝えていた。同様の条件は似たような状況下(本国は開城・降伏して藩主は抵抗を継続している)の桑名藩にも伝えられていた(水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P187-194)。
  3. 方谷も公職からは引退し、新政府のたび重なる出仕要請を受けることなく生涯を終えた。
  4. いずれも方谷の弟子。